二合目の防空壕

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 当時の私たちにとって、函館山は格好の遊び場だった。なぜかといえば私たちは地形的にまるで孤島を思わせる函館山のあちらこちらに、子供心を魅了して止まないある遊び場所を見つけ出していたからである。それは、軍事施設跡だった。函館山には時代に取り残されたような歴史の名残が、至る所にその姿を晒していた。軍事施設跡といっても様々あって、監視所、司令棟、兵舎、砲台場、弾薬庫、そして防空壕などがある。実際にはそれらの戦争史跡が函館山のあちこちに効率よく配置されていたというべきなのだろうが、戦後生まれの私たちにその区別はつかない。だから私たちはそれらを防空壕と総称していた。  父母や戦争を体験した大人たちから話しを聞くと、大戦が終結するまで函館は重要な軍港だったという。函館山も今でこそ誰でも気軽に登ることが可能になっているが、戦時中は山そのものが要塞で、民間人の入山は禁止されていた。山頂の展望台に立って美しい町並みを眺めるかわりに、反対側の津軽海峡からいつ侵攻してくるやも知れない敵艦隊に睨みをきかせていたというところだろうか。  昭和二十年の七月になって函館もアメリカの爆撃機による空襲を受けた。この年の八月には終戦となっているわけだからダメ押しのようなものである。それでも民間人・軍人合わせて百人ほどの人間が命を落としている。函館山の要塞は応戦したが十分な戦果を上げることもなくその役目を終えた。やがて時が流れ、悲しく残酷な記憶が日々の生活の中に薄らいでいくように、函館山の軍事施設も雑草に覆われ、いつか山の表面から姿を隠した。   戦時を生き抜いた親たちは皆、子供たちが要塞跡で遊ぶことに良い顔をしなかった。空襲で亡くなった民間人や軍人の霊魂が、要塞跡には今も棲みついているというのである。      
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