愴鳴曲

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 椿がそう訊ねると、氷室に変化が生じ始める。表情や態度ではない。平静を装った外見からは見受けることのできない氷室のひた隠しにしている内面の動揺を椿は敏感に感じ取った。希にあるのだ。椿は幼少の頃より他人の胸の内を言葉や表情に頼らず受信する現象に遭遇してきた。それは感情そのものとしか言い表せない抽象的なイメージの流入であり、あえて概念を持たせるなら色や匂いの広がりに近い気がする。感情の器の中に他人の色が流れ込んできて、自分を浸食していく。今、氷室から感じた感情は、無臭の黒が一瞬のうちに崩壊し、濁った白がぽたぽたと落ち行くような心象。黒からは隠したいことや自己防衛の、白からは何かしらの罪の意識と不寛容さを嗅ぎ取った。 「そんなに父のことが怖いですか?」 「なにを――」  氷室はここで初めて動揺を露わにし椿の顔を見た。そしてすぐに目をそらす。心の内側が先に分かり後からそれを体現させた言動を見せつけられる。まるで筋書きが読める三文芝居でも見せつけられているようで滑稽だと椿は思った。 「家には父の位牌はあっても遺影がありません。アルバムにも父の写真はなかった。幼い頃、一度祖母にそのことを訊ねたことがあったのですが、「碌でもない男だった」と「二度とそのことを口にするな」と、もの凄い剣幕でしかられたことがありました。先日その祖母も亡くなり遺品を整理していたときに興信所の封筒が見つかって、その中に父の経歴と証明写真が入ってました。確かに父は碌でもない人間だったようで、そしてその顔は私にうり二つでした」  父は母を裏切った。そして父は自殺した。本当に自殺だったのだろうか? 「私は母にとって父の亡霊なんですね」  氷室がごくりと喉を鳴らす。精神科医という職業柄、普段から感情を表に出すことの少ない氷室の隠し通すことのできなかった感情。そのことが椿の言っていることの正しさを証明していた。椿は静かに椅子から立ち上がる。     
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