愴鳴曲

4/29
21人が本棚に入れています
本棚に追加
/309ページ
「椿君、どこへ」 「家へ帰ります。先生が私を引き取ってくださると言ってくれたことはとても嬉しかった。でもお断りします」 「どうして?」 「先生にとっても私が父の亡霊だと確信したから。私は先生の負担にはなりたくない」 「それはごか……」  誤解だ、そう言いかけて氷室は言葉を詰まらせた。椿が人の心を見透かす能力に長けていると氷室も薄々感づいていた。何を言っても嘘だとばれてしまう。 「さよなら、先生」 「待ってくれ、椿君。春逞(はるゆき)は、君のお父さんは碌でもない男などではなかった。それだけは信じて欲しい。君のおばあさまは確かに春逞を疎んじていたところはあったがそれは誤解なんだ。春逞もまた筆舌しがたい苦境の中育った。実の父親からの暴力だ。そんなこともあり、道を踏み外したことも確かにある。それでも美樹さんが、君のお母さんが彼のことを支え、春逞は立派に立ち直ったんだ。彼は私にとって尊敬すべき友であり、美樹さんにとって愛すべき夫であった。それだけは間違いない」 「父は愛されていたんですね」 「そうだ。春逞は愛されていた。私たちだけじゃない、春逞は本当に純粋で美しくて、多くの人から慕われていた。そう、愛されていて――」     
/309ページ

最初のコメントを投稿しよう!