12人が本棚に入れています
本棚に追加
なぜ、あの時小粋な会話の1つもしなかったのだろう。
あれは絶好のチャンスだったはずだ。かろうじて彼について持っている情報は、この会社の隅へと追いやられた狭い喫煙所の常連の1人であること。そして、首から下がる社員証を覗き見て知った所属部署と『八尋嵩行』という名前だけ。あとは、吸っている煙草の銘柄くらいだろうか。
やっぱり今日も来ない、か……。ちらっとガラス戸の向こうを見ても人が来る気配はない。
特に約束をしているわけでもなく、ただ、いつも偶然、彼とここで鉢合わせることを期待していた。同じ会社ではあるものの、部署も違い、喫煙者でなければ一生関わることもないだろう彼と。
「そういえば最近、八尋くん来ないね」
「あぁ、そうっすね」
佐々木さんと倉木さんの会話に、素知らぬ顔で聞き耳を立てる。
5人も入れば十分な広さのこの喫煙所を利用する人は限られている。そのため、所属部署が違っていても名前と顔くらいは覚えていた。
「禁煙なんてしても、すぐにこっちに戻ってくるのにな」
「それがちょっと訳あり、っぽいっすよ?」
「訳あり?」
事情を知っているらしい佐々木さんの口振りに、私も倉木さんと全く同じ相槌を胸の中で打ってしまった。
その反応に気を良くしながら、佐々木さんは内緒話をするように声を潜める。
「どうも、彼女が出来たっぽいです」
え、と漏らしそうになった声をどうにか喉の奥に引っ込める。
「その彼女が煙草嫌いっぽくて、この前、煙草止めたのか聞いたら『匂いがして嫌って言われた』って」
「そりゃ幸せなこって……っと、そろそろ戻るか」
灰皿に煙草を押し付けると、2人はいそいそと出て行った。そして、喫煙所には私だけとなり、沈黙と1人分の煙が室内を満たす。
自然と視線は灰皿に溜まった吸殻に落ちていた。ぼんやりとした脳裏に、あの火を貸した時の光景が蘇る。
「彼女、出来たんだ…」
話したこともない、ただここで出会っただけの顔見知り。彼女になりたい、とまで大胆に願ったことはない。
それなのに、どうしてこんなにも胸は重たいのか。
最初のコメントを投稿しよう!