喫煙OLの楽しみ

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 なぜ、あの時小粋な会話の1つもしなかったのだろう。  あれは絶好のチャンスだったはずだ。かろうじて彼について持っている情報は、この会社の隅へと追いやられた狭い喫煙所の常連の1人であること。そして、首から下がる社員証を覗き見て知った所属部署と『八尋嵩行』という名前だけ。あとは、吸っている煙草の銘柄くらいだろうか。 やっぱり今日も来ない、か……。ちらっとガラス戸の向こうを見ても人が来る気配はない。  特に約束をしているわけでもなく、ただ、いつも偶然、彼とここで鉢合わせることを期待していた。同じ会社ではあるものの、部署も違い、喫煙者でなければ一生関わることもないだろう彼と。 「そういえば最近、八尋くん来ないね」 「あぁ、そうっすね」  佐々木さんと倉木さんの会話に、素知らぬ顔で聞き耳を立てる。 5人も入れば十分な広さのこの喫煙所を利用する人は限られている。そのため、所属部署が違っていても名前と顔くらいは覚えていた。 「禁煙なんてしても、すぐにこっちに戻ってくるのにな」 「それがちょっと訳あり、っぽいっすよ?」 「訳あり?」  事情を知っているらしい佐々木さんの口振りに、私も倉木さんと全く同じ相槌を胸の中で打ってしまった。  その反応に気を良くしながら、佐々木さんは内緒話をするように声を潜める。 「どうも、彼女が出来たっぽいです」  え、と漏らしそうになった声をどうにか喉の奥に引っ込める。 「その彼女が煙草嫌いっぽくて、この前、煙草止めたのか聞いたら『匂いがして嫌って言われた』って」 「そりゃ幸せなこって……っと、そろそろ戻るか」  灰皿に煙草を押し付けると、2人はいそいそと出て行った。そして、喫煙所には私だけとなり、沈黙と1人分の煙が室内を満たす。  自然と視線は灰皿に溜まった吸殻に落ちていた。ぼんやりとした脳裏に、あの火を貸した時の光景が蘇る。 「彼女、出来たんだ…」  話したこともない、ただここで出会っただけの顔見知り。彼女になりたい、とまで大胆に願ったことはない。  それなのに、どうしてこんなにも胸は重たいのか。
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