第3章

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「私がここに嫁いできたのは、陽奈ちゃんぐらいの年頃だったわ。厳しいお姑さんでね。箸の上げ下ろしから座り方まで、事細かにガミガミ言われて暮らしてきたわ。主人だけには、それはもう優しくて、甘い声を出して「ちゃん」付けで呼ぶの。いい大人なのにね。初めて聞いた時は、ビックリしたわ」 「…………」  陽奈もびっくりした。 「それから、しばらくして、主人は外に女の人を作ったの。それからの私は針のむしろだったわ。私が悪いから女が出来たんだと、姑さんに言われてね。 帰る家もないし、ここで頑張るしかないじゃないの。……今考えても、身勝手な主人が悔しくて、涙が出てくるわ」  お母さんは、そう言って唇を噛んだ。 「あっ、心配しないで。好き合って一緒になったわけじゃないからね。昔は、年頃になったら近所に世話をやく人がいて、その人が『あっちにこんな男の人がいるよとか、こっちに団十郎並みの男前がいるよ』なんて言ってきて、結婚するもんなの」 「団十郎って……」 「あはっ、この話は陽奈ちゃんには古過ぎるわね。団十郎ってのはね。今風で言ったら、ハンサムで格好のいい人ってことよ。昔、歌舞伎の役者で市川団十郎というものすごい格好のいい人がいたのよ。それで私の若いころは、格好のいい人のことを「団十郎」って言ってたの。私の主人は普通の人だったけどね。 その時も、お姑さんは、女が出来るのは男の甲斐性やって。あんたはえらいって褒めまくるのよ。子どももいなかったし、今の時代だったら、こっちから離婚したでしょうね。でも、当時は離婚なんてとんでもない事だから、離婚の「り」の字も頭に浮かばなかったわ」 「お母さん、ご苦労なさったんですね」 「でもね。どんな苦労も、時がたてば笑い話よ。そのお姑さんも、最後は寝たきりになって……ごめんね、有り難うねって何度も言って感謝してくれたわ。あんなにキツイことばかり言ってたのに、最後は、あんたが嫁で良かったって。私を拝むの。仏さんにするみたいに。 人間て、おかしなもんね。そう言われると嬉しくなって、私もお姑さんのためにずいぶん尽くしたもんよ。その後、舅さんも後を追うように亡くなって……。それから何年か経って、主人が帰ってきたの。女の人に捨てられて、ボロボロになっていたわ」 「帰ってきたんですか?」 「そうよ」 「ビックリしませんでしたか?」 「そりゃあ、ビックリしたわよ。出て行ったときは、まだ若かったし、玄関に白髪交じりのお爺さんが突然立ってるんだもの」 「お母さんはどうしたんですか?」 「お帰りなさい…と言ったのよ」 「……あの、それだけですか?」 陽奈は、何を言えばいいのか分からなかった。 「そうよ」 お母さんは静かに答えた。
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