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陽菜が戸惑っていると、お母さんが、
「陽奈ちゃんの思ってること分かるわ。どうして『お帰りなんて言ったんだろう。女の人のところに行った人なのに』と思ってるんでしょ?」
「……いえ……その......」
本当は図星だった。
「なんでかなぁ……。自分でもよく分からないわ。だけど、その言葉しか出なかったの。出て行ったあの人がお爺さんになって、目の前に現れて、混乱したのかしら」
「本当に、ご本人だったんですか?」
もう、ずいぶん昔の事なのに、陽奈はハラハラした。
「ええ、親の面影も残っていたし 、なんだかんだ言っても夫婦をしていたんだもの。わかるわよ。……気恥ずかしそうに、表で立っているあの人を見て、不思議な気持ちになったわ」
「お母さん」
「でも、そうね。陽奈ちゃんに改めて聞かれて思ったけど、どうして、『お帰りなさい』なんて言ったのかしら、結婚生活は二、三年ほどだったし、その時も、舅や姑に見張られたような息苦しい生活だったから。
今の人のように甘い生活なんて考えられない事だったわ。だから、いい思い出なんて一つもないの。今考えると、ほんと、おかしいわね」
「ご主人は、なんておっしゃったんですか?」
「ひと言、『ただいま』と言ったわ」
「それから、どうされたんですか?」
陽奈が聞くと、お母さんはクスクス笑った。
「お母さん?」
「それがね、可笑しいのよ。私、その頃、生命保険の会社で、勧誘の仕事をしてたんだけど、次の朝、台所に下りてきたら、あの人が朝ごはんの用意をしてくれていたの。
何にもしたことのなかったあの人がよ。自分一人では靴下ひとつ、はけなかったのに……。帰ってきたら、夕食の準備をして、『おかえり』って、私に言ってくれたわ。ああ、この人も苦労してきたんだなって思ったわ」
陽奈は、どう答えていいか分からず、ただ頷いた。
「あの人が、掃除機をかけたり雑巾がけをしたり、家の中の傷んだところを修理したり、しばらくして、生活費を預けるようになって買い物もするようになったわ。
相変わらず、お互いの間には、ぎこちない空気が流れていたけど、一緒に生活してるうちにそれも消えていったわ。何年も暮らしたのよ。
私が嘱託も終わった頃、あの人も床に就くことが増えて来て、気も弱くなったのね。『すまない、すまない』こればかり口にするようになったわ。話をする時間も増えてね。そうするうちに、私が嫌いで家を出たんじゃない事が分かってきたの。」
陽奈は頭をコクッとして相槌をうった。
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