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女の人が部屋から出てきた。ゆらゆら動いているような、それなのに、止まっているような不可解な動作だった。
陽菜は会釈したが、陽菜に気が付いないのか反応はない。どういうわけか、お母さんは送り出しに出てこない。
陽菜は、もう一度、挨拶することにした。
「こんにちは。初めまして。私……」
その女の人は聞こえなかったのか、目も合わせることもなく、不可解な歩き方のまま出て行った。何か胸の奥に、少しモヤモヤしたものが燻ぶった。
「お母さん、新しく入る人、決まったんですか?」
お母さんは、何か考え込んでいるようだった。陽菜の声にも気づいていない。
その様子は、後悔しているようにも見える。
「お母さん?」
「ああ、陽奈ちゃん。お帰りなさい。新しく入る人が決まったのよ」
「今、すれ違いました」
「そう、……陽奈ちゃん、どんな感じの人だと思った?」
「おとなしい人だなと思いました」
「そう、そうね。本当にそんな感じの人だったわ。下を向いてばかりで……」
お母さんはそう言って黙ってしまった。なんだか、お母さんの様子に言いようのない不安を感じてしまう。工場で働いていたときも、無口な人は何人かいたけれど、話してみれば悪い人ではなかった。
でも、挨拶をしても知らん顔するというのは、初めてだった。
前の工場で同室だった和子は、とてもおしゃべりで、黙っている時間がないくらいだった。その上、ことあるごとにお金の無心をするので、陽奈は閉口していた。
でも、あの人なら打ち解けるのに、少し時間がかかるかもしれないが、何とかなりそうな気がした。
「理沙ちゃん、久美子ちゃん、お帰りなさい」
お母さんは理沙と久美子が帰ってくるのを、遅くまでキッチンで待っていた。
「あのね。部屋を借りてくれる人が、決まったので、よろしくお願いします」
「良かったですね。お母さん。また、にぎやかになりますね」
理沙が言うと、お母さんは、少し戸惑ったような表情になった。
「お母さん、どうしたんですか?」
久美子が、いぶかしげに言った。
「なんでもないわ。……とても、おとなしい感じの人だったわ。でも、皆さんと同じ年頃の人だから、きっと気が合うと思うの。仲良くしてあげて下さいね」
「はーい」
「また、スミレ荘にその人が来たとき引き合わせるから、よろしくね」
「はい」
二人は、気軽に返事すると、二階の自室に上がって行った。
「ね、陽奈ちゃん、今日の人のこと、どう思う?」
お母さんは、また聞いてきた。
不安そうだ。
「あの、よく分かりません。すれ違った時もずっと下を向いていて、挨拶をしたんですけど、気付かなかったみたいで……何も言わずに帰ってしまわれたので……だから、顔もはっきり分からないんです」
「え! 挨拶したのに、知らんぷりしたの……?」
陽奈の話を聞いて、お母さんは急に深刻な顔になりました。
「はい。でも、ほんとうに気づかなかったのかもしれません」
お母さんは、自分の心を落ち着かせようとしているのか、胸の辺りを擦りながら言った。
「私、焦りすぎたかしら……。スミレ荘に迎える人でこんなに不安になったのは初めてよ」
お母さんのその目は不安に揺れていた。
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