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朝起きると、お母さんが鼻歌を歌いながらキッチンに立っていた。
「お母さん。大丈夫? 私がします」
「あら、陽奈ちゃん。おはよう。今朝は何だか気持ち良くって、早く目が覚めたの。ほら」
お母さんは、手を大きく振り回して見せた。陽奈も嬉しくなって、お母さんに合わせて手を振り回した。
誕生日の日から、ずいぶん元気になった。お母さんは以前のように、またスミレ荘のあっちこっちをきれいに掃除しはじめた。ホウキを持つとき、雑巾で拭くとき、いつもの歌を口ずさんでいる。
「お母さん。いい歌ですね」
「でしょう……。私の一番好きな歌なの」
「なんていう歌なんですか」
「昔の古い歌で『哀愁の夜』って言うのよ。大好きだった人を思い浮かべて歌う歌よ。どういう事情で相手のお嬢さんと別れたのか分からないのだけど、亡くなったのか、親に引き離されたのか。きれいな星空の下を歩きながら、その人のことを想って歌う歌なの」
「お母さんも好きな人に出会いましたか?」
「……いたわよ。片思いだったけれど、でもその人はみんなの憧れの的でね。私なんかにはとてもとても……雲の上の人だったわ。私のことより、陽奈ちゃんはどうなの?」
「私は、駄目です」
「何言ってるの、若い人がそんなんで、前の会社には、いい人いなかったの?」
「女の人ばかりだったので……。同室の人は、付き合っている人がいて、映画やドライブに行く話をよく聞かされてました。でも、私は……」
「そんな弱気じゃ駄目よ。優しくて、強くて、陽奈ちゃんを守ってくれるいい人を、見つけなくちゃ」
お母さんが手をブンブン振り回して真剣に言うので、思わず笑ってしまった。
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