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第5章
しばらくは何事もなく、穏やかな日が過ぎて行った。
いつものように玄関を掃除していたお母さんは、二階から降りてきた雨谷とバッタリ出くわした。お母さんを無視して通り過ぎていく。お母さんは必死で声を掛けた。
「あの、雨谷さん、もう、戴いたお家賃はお返ししましたし、早くここから出て行っていただきたいのですけど……」
「……はあ? なんで?」
分厚い一重の重たい目を釣り上げて不足そうな顔をした。
「……な、なんでって……、お金受け取ったでしょう?」
「そんなん知らんわ」
黒ずんだ薄い唇をひん曲げて声を荒げた。
「そ、そんな……、お渡ししたでしょ?」
「そんなに出て行って欲しいんやったら、引越し代、百万円、持ってきて」
「ええ!?」
雨谷はお母さんを見下したように見ると、フンと鼻を鳴らして行ってしまった。お母さんは、体を固くしてその後ろ姿を呆然と見送っていた。
肩まで伸びたパーマ気の無い髪、細い体にバランスの悪い大きなおしり。今時見かけない伸びたようなフレアースカート。そこからでている太い足首。身長に比べてずいぶん大きな足にペッタンコ靴を履いて、ジーンズ地の大きな布カバンを肩にかけ、駅の方に向かって歩いて行った。
(大変な人を、スミレ荘に入れてしまったわ。)
お母さんの胸の奥でずっとチリチリとくすぶっていた不安が、大きな塊になっていく。声をかければ突っつけどんで棘のある返事しかしない雨谷。お母さんは、雨谷のような性格の人間に会ったことがなかった。
話が通じないというのか、出来ないというのか……一方通行でまったく心が見えない。そんな人が、この世の中にいるなんて思いもしなかった。
今までが、運がよかったのかも知れないと思った。明るくて、いい娘さんばかりが住んでくれた。
新しい人が入るときは、うまくやっていけるかと心配することもあったけれど、大きな問題もなく、みんな仲良くやってきた。いろんな職業の人と暮らしてきたけれど、スミレ荘の約束事は、みんなきちんと守ってくれた。
その間にまったく揉め事がないわけではなかったが、だいたいはトイレやお風呂掃除の当番を守らないというような些細なことだ。共同で使用している個所はほとんどお母さんが掃除をしていた。
みんな働いて疲れているだろうと思ってのことだ。
最近は体があちこち弱ってきて前のようにいかないが、今、一緒にいる理沙や久美子は約束事をよく守る子達で、そういう小さなもめ事もなかった。その上、陽奈がよく手伝ってくれるので、大助かりだ。
陽奈は定時に帰れる仕事をしているため、お風呂やトイレの掃除を一人で引き受けてくれている。理沙や久美子はとても感謝して、大阪の美味しいケーキやおまんじゅうをよく買ってきてくれる。
それをいただきながら陽奈と他愛無い話をして飲むお茶の時間は、お母さんにとってこの上ない幸せなひと時だ。
(なのに、今度入って来た雨谷さんは……)
お母さんは大きなため息をついて、表玄関を掃き始めた。
それから、3日ほどして雨谷は、頭を金髪にしたヒョロっとした男を連れて帰ってきた。
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