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女のよく動く赤い口唇から喉もとへ、視線がおのずと移ったとき、突然、オレは性的衝動をおぼえた。おもむろに、さわろうとして片手を伸ばすが、
「たとえば、このいただきもののリンゴ」
しかし寸前で、オレの鼻先に真っ赤な、ひとつのリンゴが差し出されていた。
ぼんやりとオレはそれに焦点を合わせようとしながら、習慣化したことのように当然の発想として、きれいに切り分けるべきだと強く思う。そして、突き刺して食べるべきとも。
「有名な哲学者は言うわ、女は真実で男はそれを欲しがる、と。あわれなものね、男は永遠に女に誘惑される運命なのよ」
なぜなら、それを手に入れることも永遠にかなわないのだから──と、女はつづけた。
「それにこれは、永遠に普遍的で哲学的な命題」
女とオレとの間には、艶やかで赤々としたリンゴがあった。
「眼の前にあるリンゴが実際に存在するのか、しないのか。テーブルの上のコップがほんとうにあるのかないのか──みたいな。まあ中身が水じゃなくて、リンゴジュースだったらなおのことおもしろいけど」
急速にさめて、オレは起きかけていた背中を地面に落とす。罪の意識めいたものをどこか感じつつ。
「主観と客観──つまり、私と世界って問題ね。人間は眠っているその真っ最中、あまりのリアリティの感覚に夢と現実の区別はつかないもの。そういうことからして、すべて疑うならいくらでも疑える」
正確にピントが合わない。リンゴの輪郭の向こう側で、女の姿がダブりズレて見える。
「このリンゴは実在するのか。じつは内部から産み出された仮想/幻覚なのかも、または外部から投影された立体画像かも。たとえ現実にあるのだとしても、本物かどうかわからない。精巧につくられたレプリカ、なのかもしれないし」
問われてオレは、眼前の中空にあるそれをしげしげと眺めた。
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