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時雨月(5)終話
「——で、喜八のとっつあんの塩梅はどうだい?」
四十がらみの飴売りの男が、塗りの剥げた神楽堂の柱に凭れ、ゆったりと煙管を燻らせながら訊く。吉原被りの温和なおもて。地味な縞の単衣の尻を端折り、股引を穿いている。躯つきは中肉中背。どことて特徴のない、どこにでもいるような平凡な風体のこの男は公儀の忍び衆だ。帯刀の家人が、華を迎えに来たのを見届けた於菟二は、ようやく家路についたものの、今度は仲町の外れでこの男に会ってしまったのだ。
「まだ、一人で飯も食えねえ有様で……」
「煙草売りは来たかい?」
「煙草売りなら……きのうの昼に」
於菟二は柱の陰に立ち、立ち話のような口調で話してゆく。喜八のとっつあんというのは、帯刀の「き」の字をとった隠語で帯刀のことだ。取次役の男の名は佑次。もちろん偽名に違いない。優しげにほそめられた眼の奥に底冷えのする光を宿らせたこの男は、帯刀の様子を探っているのだ。
空は、時雨が通ったのを忘れたかのような澄んだ夕焼け色が薄れ、宵闇に呑まれつつある。古寂びた八幡社の境内は石蹴りをしていた子らが家へと帰り、今は野良犬がうろつくばかりだ。
「とっつあんの手下らしい浪人ふうの侍が一人、いつも来る眼医者とその助手、とっつあんの下男、新しい飯炊き女と風呂焚きのじいさん、あと薪売りが来やした」
「飯炊きはどんな女だい? 二十そこそこの色白のべっぴんじゃあなかったかい?」
「いや、色の黒い大年増で牛蒡みてえな女です」
「六尺を越える、眼の鋭い大男はどうだい」
「背が高いってんなら煙草売りだが、六尺まではなかったと……あと糸目で、鋭いってふうじゃありやせん」
「風呂焚きのじいさんは?」
「腰が曲がって、もう六十過ぎだそうで」
「この三日の内で、とっつあんと話したのは誰だい?」
「風呂焚きのじいさんと煙草売り。あと、飯炊きのカネさんとも世間話を」
「それだけかい? とっつぁんと乳繰り合うのに夢中で見逃しているんじゃねえのかい?」
「え……」
顔を向けると、夕闇をまとった佑次の眼が冷ややかにこっちを見ている。於菟二の首に脂汗が浮く。
「他に、おれに言うことがあるかい?」
「今朝方……下男が迎えに来て……駕籠で組屋敷へ。急な御用があるそうで……」
「なるほど」
佑次がうなずき、石の土台に煙管の雁首をとんと打つ。
「文は、朝のうちに石地蔵の頭巾のなかに……」
竹井村の荘を囲む竹林の外れに、忘れさられた石地蔵がある。於菟二はそこに参るふりをして、報せ文を入れるのだ。
「そうだったな。おめえはいつもきちんとやっている」
「へえ」
「とっつあんは、おめえの手に負える玉じゃあねえが、おめえを気に入っている。しっかり張りついて、また報らせろ」
「へえ」
「ゆめゆめ妙な気起こすんじゃあねえぞ。おめえが不始末をしたら、所帯をもったばかりの妹が気の毒なことになる。そうそう、近頃江戸では相対死(心中)がはやっているそうだ。大川に浮かんだ仏を見物しに、わざわざ船が出るらしいが、なかには蝦蛄がたかった仏もあるそうだ。おめえ、蝦蛄に喰われた仏を見たことがあるかい? そりゃあひでえもんだぜ。そういや、お紋の腹がでかくなっているって話だが、孕み女の仏は」
「やめてくれ。不始末なんかするもんかい!」
於菟二は堪らず遮った。佑次が煙管をしまいつつ頬をゆるめる。
「そうだ。てめえの足がどこに繋がっているか、忘れなければそれでいい」
於菟二が堅い表情で頷くと、佑次が親しげに肩を抱く。
「しけた面するねえ。色男が台無しだ。おめえが、とっつあんに鞍替えしたんじゃねえかって云うもんがいてな。なに、つまらねえ戯言だが、ちょいと気になってな」
「埒もねえ」
於菟二は吐き捨てた。背を向けた於菟二の尻を、佑次の硬い手がぞろりと撫でる。
「腐るな。久しぶりに飯でもどうだい? なに国許から奥方が出て来ちゃ、とっつあんも出歩けまいよ」
於菟二は背筋を凍らせた。華と会ったことは報せていない。ましてや華が名賀浦に着いたのは今日の昼だ……
「おいら……喉が渇いちまった」
於菟二は震える息を吐いた。この男は、自分が報せていることなど、とうに知っているのに違いない。そしておそらく、ついさっきまで華と一緒にいたことも……
「そうかい。なら美味い酒でも飲みにいくかい」
佑次の息が耳もとに掛かる。
引き寄せられるまま、於菟二は宵闇に呑まれた。
吹きつける風に雲が流され、薄い月影が照ったり陰ったりしている。そんな薄気味の悪い人足の絶えた夜道を、於菟二は痛む腰を庇いながらとぼとぼと歩く。
(畜生、すき勝手に嬲りやがって……)
佑次という忍びは、於菟二が名賀浦にきて以来の馴染みであった。右も左もわからぬ於菟二に住むところを与え、仕事を世話し、暮らしの便を図る。なにからなにまで面倒を見てもらった恩義はあるも、名賀浦に着いたその日に手籠めにされ、その後も事あるごとに弄ばれてきた。今まではそれなりに楽しんできた於菟二だが、今夜は苦痛だった。
(酷でえ一日だ。朝からまるでついてねえ……)
野良猫に朝顔の鉢を壊され、敷石につんのめり、凧が落ちてきて髷が崩れ、時雨に降られ、さらには狭くもない名賀浦で、よりによって帯刀の妻女に……
——はい。もう生き写しですわ。
華の嬉しげな屈託のない笑顔が、眼の奥によみがえる。
「なるほどね……」
ぼそりとつぶやく。華が妹のお紋に似ているということは、自分も華の兄に似ているということなのだ。
——夫は、亡き兄、綾之助の兄のような方で、
——夫の帯刀も、とても悲しんで……
「そういう事かい……」
春の雨に降られて軒へと飛び込んだあのとき。帯刀がすんなり誘いに乗ったのも、於菟二の躯に執着したのも、身の回りの世話をさせたのも、自分が華の兄に似ていたから。
——乳繰り合うのに夢中で見逃しているんじゃねえのかい?
佑次の低い声音がよみがえる。
たしかに最中に訪れる者がいた。於菟二は恥ずかしくて眼をつぶるも、帯刀は行為をつづけながら平然と話をしていた。真昼の縁側で於菟二を抱くのは、於菟二が公儀の草と知っているから?
「……もう、わからねえよ」
帯刀も佑次も底が知れぬ。二人とも自分など通り越して、大きな何かを見据えているのに違いない。
「お紋……」
長いこと口に出していなかった妹の名がこぼれる。
育ての親である夜烏の又造が捕まったとき、於菟二は十七、お紋は十二歳だった。
あれから九年。お紋は今年で二十一。元吉という大工と所帯をもって、子も授かり、幸せに暮らしているという。死んだと聞かされている兄が生きていると知ったら、どんな顔をするだろう? 喜んでくれるだろうか? いや、きっと悲しむ。お紋は、又造が夜烏と呼ばれる夜盗であったことも、兄が錠前破りであったことも知らぬのだ。
(死んだままの方が、いいに決まっている)
おのれに言い聞かせた途端、苦しいほどの孤独が於菟二を掴んだ。
本当の於菟二を知る者も、於菟二を必要としてくれる者も、この世にはいないのだ——否、於菟二なんて男は、はじめからこの世にはいない。“草”となったとき、それまでの名前と一緒になにもかも捨てた。ここにいるのは嘘っぱちの抜け殻でしかない。
風に流されてきたのか、露地木戸の陰に蛍火がひとつ、瞬きながら闇に漂っている。
「おめえも独りなのかい?」
つと足を止めて云ったとき、於菟二のねぐらである棟割り長屋の部屋の前に、塗笠を被った着流しの侍が立っているのに気づく。
(まさか……)
心の蔵がはねる。
「遅いぞ、於菟。近頃は物騒ゆえ、暗くなる前に家へ帰れと申し聞かせたのを忘れたか」
塗笠の奥からひびく温かな声。於菟二の眼から涙がこぼれる。
(ずるい)
悪怯れもせず、一足で於菟二の心の深いところへ入り込んでくる憎くてずるい——いとしい男。
(あんたの方が、よっぽど錠前破りだぜ)
されど盗まれっぱなしでは、於菟二の男が廃る。於菟二は突き上げてくる嗚咽を殺し、うつろう月影のなかで眼を上げる。盗まれたら、盗み返すまでだ。
「心配する相手を、間違えてやしませんかい?」
「怒っているのか?」
「なんでおいらが怒るんです? おいらと旦那は赤の他人だ。旦那が誰と何をしようと、おいらの知ったこっちゃねえ」
「なれば、なにゆえ泣く?」
「泣いてなんかねえよ」
「どう見ても泣き顔だ」
於菟二は息を詰める。自分がどれほど骨抜きにされていたか、考えることも、見ることもできないほど——帯刀との暮らしを終わらせたくなくて眼に蓋をした。そんなことだから、佑次が釘を刺しにあらわれたのだ。
「見えて……」
「もう少しだけ、おまえに世話をしてもらいたかったゆえ」
帯刀が軒の影から出、しっかりとした足取りで於菟二へと近づいてくる。
「嘘つき」
「悪かった」
強い力で引き寄せられ、芳しい髪油の匂いにつつまれる。於菟二が今朝、帯刀の髪を結うのに使った香油のかおりだ。
「悪党」
毒づく孤独な唇を、温かな唇がふさぐ。抱き合う躯が熱い。
——と、ぽつり、と帯刀の塗笠に雨粒があたる音がした。
時雨がまた降ってきた。
了
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