30人が本棚に入れています
本棚に追加
羽衣子
いつもは座れるバスの座席がきょうはすべて埋まっていた。
バイトの帰り、車内での読書を楽しみにしている柴田羽衣子はつり革につかまったまま文庫本を開いていたが、さすがに集中して読むことができない。
停留所に止まっても一人二人と乗客は増えるばかりで降りる客はいなかった。
座る機会を窺っているうちに自分が降りる一つ手前の停留所を過ぎてしまった。
あきらめて本を閉じ、降車ボタンを押そうと手を伸ばす。その時、ボタン前の座席に座る黒いコートの男と目が合った。ぎょろりとむき出た大きな目が黒縁眼鏡の奥にある。瞬間、羽衣子は違和感を覚えたが、それが何か気づく前に叫び声がしてバスが急停車した。
不安定な姿勢をしていた羽衣子は反動で黒縁眼鏡男の懐に倒れ込んでしまった。
叫び声は運転手のものだった。乗客の悲鳴と怒号の間から、「ばかやろうっ。死にたいのかっ」と怒鳴っている。
「いったいなんなんだっ」
一人の乗客が抗議を上げた。
「自転車ですよ。自転車に乗った子供が飛び出してきたんですっ」
「まあそれで大丈夫だったの」
優しそうな老婦人の声も聞こえた。
「ぶつからなかったですけど――ったく、さっさと逃げやがってあのガキ――
皆さん、お怪我ないですか。申し訳ありませんでした」
運転手と客たちの会話を聞きながら、羽衣子は慌てて立ち上がった。
「すみません。すみません」
黒縁眼鏡に何度も頭を下げる。
立っている客はみなしっかりつり革を握っていたのか、倒れたのは羽衣子だけだった。恥ずかしくて顔から火が出るようだ。
気付けばバスは走行していた。降りる停留所がすぐそこまで来ている。
「す、すみません。降りますっ」
「ブザー押してくださいよっ」
いらついた口調の運転手に、羽衣子は慌ててボタンを押した。
バスが停車し、前方のドアが開く。
立ち客の間を縫って出口まで向かったが、いつも準備している定期券はまだバッグの中だ。取り出そうとするが、焦るばかりでなかなか出てこない。
「早くしてくださいよぉ」
運転手の冷たい視線が突き刺さる。
「すみません。すみません」
何度も頭を下げ、ようやく取り出して出口を下りた。
地面に降り立ったと同時に勢いよくドアが閉まり、バスが急発進した。
もしスカートがドアに挟まっていたら。バスに引きずられていく自分を想像し、羽衣子はぶるっと身を震わせる。
さっきの自転車の件で運転手さんもいらいらしてるんだよ。仕方ないよね。
羽衣子はとぼとぼと一人暮らしのアパートへと歩き始めた。
手に持っていた文庫本を落としたことに気づいたのは部屋に入った後だった。
最初のコメントを投稿しよう!