30人が本棚に入れています
本棚に追加
柳
「これで決まったらいいのにね」
浮かない顔の羽衣子と一緒に就活から帰宅した柳は元気づけるように笑った。
「でもあまり手ごたえなかったわ――」
「気にすんな。もういっそ僕に就職するってどう?」
さりげないつもりで言ったが、柳の心臓は早鐘が打っている。
「え? なに?」
寄り道したスーパーのレジ袋を調理台で開けていた羽衣子が振り向く。
聞いてなかったの?
柳はがくりと項垂れた。
そんなことに気付きもせず袋の中を覗いていた羽衣子があっと声を上げる。
「お醤油買うの忘れてた。
ちょっとそこのコンビニで買ってくる」
「ちょっと待った。僕も行く」
財布を持ち玄関に向かう羽衣子を柳が留めた。
「いいのいいの。疲れているのにこんなことにまで付き合わせるの悪いもの。ささっと行ってくるから。
それにこれもあるし。何かあったらすぐ連絡するわ」
羽衣子がジャケットのポケットからスマホを出した。
携帯を持っていなかった羽衣子に柳が貸し与えたものだ。恐縮する羽衣子に就活するならなおさら必要だからと持たせた。
「あのね。僕が君にくっついてる意味理解してる? いわば護衛だよ。一緒にいなきゃ意味ないの。
それに羽衣ちゃん、機械音痴でそれまだ全然使いこなせてないよね」
柳は苦笑交じりのため息をついた。
「でも――お醤油一本買うのに二人で行くなんて」
「じゃ僕が買ってくるよ。羽衣ちゃんは先にできる料理やってて。
ただし、僕が出た後は鍵を掛けて誰が来ても絶対ドアを開けない事。絶対だよ」
絶対守ってと繰り返してから柳は外に出た。
施錠する音が聞こえたのを確かめてからドアの前を離れる。
「大丈夫かな」
柳は何度も振り返りながら通りにあるコンビニに向かった。
途中にある薄暗い路地に差しかかり、辺りにさっと目をやる。
さっきの帰宅時も警戒した場所だ。今は羽衣子を連れていないが、暗がりを見るとついやってしまう癖がついた。
古い街灯の滲んだような光は闇に負け、塀と塀との間や電柱の後ろの陰が濃い。
要注意の区間だが先ほどと同じく何の気配もなかった。
安心して十数メートル先の明るい通りに目を移した時、突然背後からの気配に柳は振り返った。
と同時に風が動き何かが襲いかかる。
とっさに身をかわしたが顔に衝撃を受けて頬が痛い。
思わず触れた手のぬめりを確認する間もなく次の攻撃をかわし、柳はその反動で地面に転がってしまった。
そこへ大きな影が覆いかぶさり、顔を打撃され鼻の骨が折れた。
顔を潰す気なのか執拗に狙ってくる。
それがなぜかはわからないが、この大男が誰かはわかる。
あの連続猟奇殺人鬼。
羽衣子本人ではなく、彼女に関係する者をターゲットにしているということがこれで証明された。
柳は損壊された遺体を思い出し、ばらばらにされた自分を想像して怖気を振るった。
頭部や顔を何度も打たれそれを庇う両腕も痛撃を受けたが、柳は渾身の力を込め、のしかかる大男を跳ね退けた。
僕はこう見えて結構強いんだ。
仰向けに転がった男の顔が街灯の鈍い光に映し出される。黒眼鏡の奥の狂暴な光を湛えたぎょろ目が柳を睨みつけた。
今まで調べた容疑者候補の中にない顔だ。
大きくて鋭利なサバイバルナイフを持ち、柄にはべったりと柳の血がついている。
ふと消えそうな意識を奪い立たせ柳は男にじりじりと迫った。
今まで姿形の見えなかった容疑者にやっとたどり着けて気が逸る。
平山に福沢、汗と脂にまみれて捜査に駆けまわる仲間たち、そして羽衣子の笑顔が脳裏に浮かんだ。
こいつを逮捕すれば彼女に平穏な生活が戻り、そして僕は――
仰向けに倒れたまま柳を凝視する男に怯えはみじんも感じられない。サバイバルナイフを握った手の盛り上がりに反撃のタイミングを窺っているのがわかる。
柳が一歩踏み出したその時、内ポケットのスマホが鳴り響いた。
一瞬気を取られた隙に男が素早く立ち上がり、柳の目前でナイフをひらめかせた。
瞬時にかわしたものの胸元に痛みが走る。
その瞬きの間に男は闇に消えた。
ワイシャツを赤く染めて痛みに耐えながら柳は辺りの闇を窺ったが男の姿は見えない。
お前の顔は覚えたぞ。必ず捕まえてやるからな。
柳は興奮と痛みに荒い息を吐きながら、胸元で鳴り続けるスマホにようやく応対した。
「何やってるんだっ、さっさと出んかっ」
平山の怒鳴り声に緊張の糸が震え、涙腺が緩む。それでも柳はそばの闇に潜んでいるかもしれない男に警戒しつつ返事した。
「すみません。今あの連続殺人犯に襲撃されて――」
そう言ったつもりだったが、
「なに? なんて言ってるんだ? 柳? お前本当に柳なのか?」
困惑する平山にようやく柳は自分の顔がひどく変形し、鼻骨だけでなく前列の歯もほぼ折れていることに気付いた。
最初のコメントを投稿しよう!