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曽場が転勤してきたのは東京も千代田区、少し足を延ばせば皇居が見える、立派な日本の中心地。転勤の辞令を受けたのが三月の末だったので、社員寮の空きがないとかなんとかで、自分を含め数人が会社周辺散り散りに住んでいるらしい。
らしい、というのは他の転勤者との交流がないわけで。それでそんなことも知らないわけで。
そんな折、都会の風に吹きさらされながら引っ越しの荷解きをしていると、声をかけてくれたのはとろろさんだ。
「あら、隣に越してきた方ね。よかったー優しそうな人で」
ふと見上げると、とろろさんがいた。いや、当時は「とろろさん」だとは思わなかった。
――とろろがいる。
噂には聞いていた。都会にはいろいろなものがいると。渋谷にはヤマンバが、原宿には踊りタケノコが、国会議事堂には全共闘がいると。それは聞いていたし、知識としては知っていた。やつらには近づくな。捕って食われるぞ――と。
しかしいくらなんでもこれはないんじゃあないか、と思う。だって、とろろだぜ、とろろ。
優しそうな人で、あなたは言ってはいて、実際自分も人並みには優しい人間だと思うが、果たしてとろろに優しく出来るのかどうかは自信がない。ブルーハーツも言っていた。人にやさしく、と。しかしとろろにやさしくとは言ってはいないわけで、しかしこれはとろろ――
「あら、無口な人なのね」
「いや、そういうわけではないんですけど」
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