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――うちに、来る?
そう言ったのは僕だった。頷いて温かい手を繋いだのは、郁だった。
花のような人。郁の母にはそんな印象がある。
ちょうど、桜が満開になる頃、日向のような笑顔、すらりとした細い腕をこれでもかってくらいブンブンと振りながら「おーい!」と春の青空のように澄んだ声で呼んでくれる、花のように美しい人だった。
僕の母の遠い親類だと言っていた。
郁の母は秀でて容姿端麗な女性だった。明るくて、屈託なく笑う、太陽みたいな、とても優しく柔らかい雰囲気を持った人。
男性とも女性ともとれる「りょう」と言う名前がとてもよく似合っていた。
――文彦(ふみひこ)、今日、りょうちゃん、来るよ。
僕の母がそう教えてくれたら、朝から胸を高鳴らせてしまう。そんな人。
染色業を生業にしていた僕の両親が住む田舎町の片隅じゃ出会うことのない楽しい話ばかりをたくさん聞かせてくれた。
海に向かって一斉に駆け出す蟹の群れの話。夜、突然現れる青く光る海の話。海上で花開く花火の美しさ。カラフルなランタンが妖艶に漂う祭りや太鼓の音が自分の内側を壊す勢いで鳴り響く夜祭り。どれもこれも刺激的で。
りょうちゃんの両親はもうおらず、うちの実家が里帰り代わりになっていたようだった。
桜を見たいと、毎年春にやって来て、僕にたくさん話をしてたくさん笑って、そして、またどこかへ帰っていく。ダンサーをしているって母が教えてくれた。けっこう名のあるところで踊っている、その界隈では有名なダンサーだった。
まだ子どもだった頃、春にだけ現れるりょうちゃんを、本当は桜の精なんではないだろうかと本気で思ったこともあったっけ。
そのくらい、綺麗だった。
だから、その綺麗な人が赤ちゃんを連れて来た時は本当に驚いたんだ。
まあるいほっぺたに、甘いミルクの香りをまとった、薄ピンク色の赤ちゃん。
その赤ちゃんがりょうちゃんの腕の中から、やっぱりまあるい手を僕のほうへと伸ばし、あーとか、うーとか、ちっともわからない、言葉にもなっていない声を発した。
とても可愛い声だった。とても綺麗な瞳をしていた。
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