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郁が解いていたあの数学の問題みたいに、三十四歳で、恋人がいたことが一度もない僕じゃそういうのわからないって思ってる?
「文?」
キスも何もしたことのない僕になんて、話してもわからないと?
「社長―、相馬社長」
「あ、はいっ」
「お客様お見えです」
「はいっ! ごめんなさい! 今行きます」
そう、思ってる?
「……ふぅ」
商談が終わり、事務所に戻った途端に大きな溜め息が零れた。繊細な商品だから。こういう打ち合わせは本当にどっと疲れるんだ。
「……はぁ」
ふぅ、はぁ、へぇ、はぁ、溜め息がとめどなく溢れてくる。
「でも、葡萄色にしてよかった」
褒めてもらえた。いや、そういう気持ちで挑んでるうちはダメなんだろうけど。もっと、こう、しっかりと、うちはこの色、自信持って染め出してます! くらいじゃないとダメなんだろうけど。
染料の調合から、色出しの加減、糸の組み合わせ方、もちろん柄のデザイン。それはとても大変な作業になる。溜め息の一つや二つ、三つや十、くらい出てくるよ。
工場の施錠するのだって、もう後回しにして、このまま机に突っ伏して寝てしまいたくなる。
「?」
従業員二名、そんな小さな工場で、古びた机に古びたファイル、に古びた椅子。でも、その机にキラリと光る銀のボール、じゃなくて、お菓子だ。銀紙に筒まれた。
「チョコレート」
それと、うちの電話の横にあるメモ帳の切れ端。
『お疲れ様。晩飯、作ってあるよ』
「……」
郁だ。これは郁の字。郁の優しくすらりとした縦長、斜め右上がりの字。
「……美味しい」
銀紙を広げて、ブラウン色をした一粒を食べると甘くて美味しくて、中のアーモンドが香ばしかった。
目を閉じながら、また一つ零れた溜め息は疲れとかじゃなくて、ほぅ、と、気持ちがゆっくり地面に寝転がるような、そんな溜め息に変わってた。
郁のくれたチョコ一粒に癒されて、そして、郁のご飯が早く食べたくなる。そう思った瞬間、思いきり威勢良く鳴る腹の虫があまりに素直で、笑ってしまった。
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