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* * * * *
慰めることも、励ますこともできなかった。
零れる涙を抑えるよう、俯いたまま目頭を押さえ続ける一哉に言えたのは、
―……哀しくて、辛い想い出でも、忘れちゃダメだよ
そんな苦言。
数分前のことを思い出しつつ、一哉が帰った後を片付けていれば、うろうろと店の周囲を徘徊する気配に気がついた。手を止め、意識を集中する。一人の人物像が脳裏に形作られたところで、風見は入り口の扉に向かった。
「……入りたいのでしたら、どうぞ」
『ぃやっ。オレは…っ……』
不意に開いた扉と、風見の姿にかなり驚いた様子で仰け反った男は、一瞬否定しかけたものの、大きな溜息を吐くと、黒髪の頭をぼりぼりと掻いて風見の言葉に従った。
『深煎コロンビア』
入るのを躊躇った割に、男は店内に入ると、風見が水を向ける前にオーダーする。背筋を伸ばし、大股で歩き、マガジンラックから適当な雑誌を引き抜き、迷うことなくカウンター席のスツールに腰を下ろす。
垣間見える王族の気質を横目に、風見はカウンター裏へ入ると、オーダーの品作りに取り掛かった。
「こんなところをうろうろしていていいのですか? 一哉くんに見つかったら、ぶっ飛ばされるだけじゃ済みませんよ?」
ぱらりと雑誌の表紙を捲った男の手が止まった。広告のページに目を落としたまま、溜息を漏らすように呟く。
『……聞いたのか?』
「春なのに、陽気に似合わない暗い顔をしていましたからね。悩み事があるなら…と聞いてしまったんです」
はあっと大きな溜息の後、男は捲った雑誌をパタリと閉じた。
「酷なことをなさいましたね」
『仕方ないだろ。どこまでも優しいんだ、あの男は。あれくらいの荒業をしなけりゃ、また同じ轍を踏む。サクラはそれを望んではいなかったんだ』
男は自分の言葉の後、風見の顔色が変わるのを見逃さなかった。身を乗り出す。
『ダメだダメだっ。言っておくが、コネがあるからって何でもできるとは限らんぞっ。[前世の記憶は戻さない]これは鉄の掟なんだからなっ』
喚く男に、挽いたコーヒー粉をミルから出しながら、風見は目を細める。
「それは承知していますが…………ずいぶん脆い鉄ですね」
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