店の名は、エルム

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 横断している間に、彼女は店内に入ってしまった。  僕は大きく息を吸い込んだ。  白い扉を静かに押した。  カラン、カラン。  軽やかな鈴が鳴った。 「いらっしゃいませ」  歯切れのいい声が響く。店主は商品整理の手を休めて顔を僕の方へ向けた。   目線が合った。  二十年もたってしまったが、目立ちのはっきりした顔は今も変わっていない。子供の頃も髪はショートにしていたし、今はオレンジブラウンに染めているけれど、面影は残っている。 「女性専門店ですけれど、ゆっくり御覧になってくださいね」  彼女は不快な表情を浮かべることもなくハキハキと言うと、キャミソールの陳列ハンガーの整理を再開した。かつての級友が目の前のいることに気がついていないようだ。 「あの・・・すいません・・・」 僕はまわりのカラフルなデザインに圧倒されていた。スーパーなどの婦人下着売り場を横目にすることはあっても、専門店の豊富なエロティシズムを目の当たりにすると、さすがに気圧された。 「何かお困りでしたら遠慮なくお申しつけください」彼女の事務的な接客口調が、僕をますます硬くさせた。「なんてね! あなた、飯沢君でしょ? 飯沢和彦」   突然、エルムは弾けたように笑い出した。  ああ、覚えていてくれたのだ。僕の緊張感は一気に弛んだ。 「すぐに分かった?」 「いいえ」エルムは首を横に振って意外なことを言い始めた。「前から知ってたよ! 外から中を覗いているストーカーみたいのがいるなあってね・・・」 「ストーカー?」僕は抗議するどころか妙に納得して、思わず噴き出した。「ランジェリーショップの前でうろうろしていたら、確かに不審者だよね」 「わたしもさ、もしかしたらホンモノの不審者かと思って警察に相談しようとしてたよ。だけどさ、何となく飯沢君に似てる気もしたし、かといって、直接話しかけるのもねえ、だって、違ったらめっちゃ恥ずかしいじゃん。それにしても懐かしいね! 近所に住んでるの?」  エルムは少女の頃も歯切れよく言うタイプだったが、それは今も変わらないようだ。 「仕事場が近所なんだよ」  偶然にも、職場の近所に<エルム>という名のランジェリーショップができて、小学三年の時のことを思いだして・・・僕は経緯を説明した。
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