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湖面に映るそれは、紛れもない老婆のものだった。 かの男が、想い人であろう女と笑っていた湖畔に山姥はいた。 水面がキラキラと光る。 手ですくって一口飲むと、それはとても冷たくて。 老いた身体を、湖水が内側から急激に冷やしていく。 晩夏の深い緑を湖面に映し、生き物たちは一年で最も命を輝かせる季節の終わりを惜しんでいる。 「……ワシの恋は、これで終わりだが。願わくば、この後もこの山が永遠に栄えることを」 後のことは、他の山の精霊たちに託してきた。 その中でも一等自分を敬っていた精霊の娘には、何度も思いとどまるよう懇願されたが。 山姥の気持ちは変わることはなかった。 「そもそも己は妖。死してもこの山の神気となって戻り、永遠にこの地を守るであろう」 独りごちて、山姥は湖に身を投げた。 -----さようなら。 お主に出会えて幸せだった。 ゆっくりと沈みゆく身体が、冷たい水の中に吸い込まれていく。 湖面に反射する光を見つめ、ゆっくりと目を閉じた。 ---あの日、あの時。人間の男に、恋をした。 話せなくても、ワシのことを見てくれなくても。 この一年間、ただただ心が温かかった。 恋を知ることができて、本当に良かった。 『幸せだったなぁ』 何百年も、この山の移り変わりを見守ってきた。 穏やかだが代わり映えのしない日々に、ある日突然訪れた転機。 それは変わらないことに慣れた山姥にとって、時に苦しく、つらく、胸の痛む日々の始まりでもあった。 会えないことのつらさ。 会いたい想いの切なさ。 『願わくば。---せめて、いつかは人間に』 真っ暗な視界。徐々に遠ざかっていく泡の音。 ゆっくりと意識が遠ざかる中、大きな水音が聞こえた気がした。 もう見えなくなった瞳をゆっくりと開く。 ほぼ真っ暗な視界の中で、うっすらと見えたのは大きな黒い影。 それはわたしの方に近づいてくると、ゆっくりとわたしの方へ手を伸ばした。 -----手? 誰かに腕を掴まれた感覚がして。 冷たく暗い水の中で、それがとても温かいことだけを認識して。 ……そこで、意識は、途切れた。
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