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分からない。 何も分からない。 この男が何を言っているのか、てんで分からないのだ。 「お主が。ーーーここで、若く美しい女と戯れているのを見た」 あれは山桜が咲き誇っていた、春の日のことだった。 そう続けた山姥に、男は一瞬面食らったような表情で目を丸くした。 ああ、どうしてこやつはこんなに澄んだ瞳をしているのだろう。 悪意のカケラもない顔で、決して逃すまいとわたしの手を痛いほど握りしめているのだろう。 「…………ああ! あの時のことですか」 男はようやく思い出したという表情で頷いたが。 その後一瞬置いて、堪えきれずといった様子で吹き出す。 「な、何がおかしい!」 「あれは、わたしの従姉妹です。婚活サイトに載せる写真を撮りたいからと、叔父を通してわたしに頼んできたんですよ」 まさか見られていたとは思いませんでした! あははは、と笑いながら男は話し始める。 「こ……?」 「婚活サイトですか? ええと、人間はインターネットという電子の……まあ仮想の繋がりのようなものを使って結婚相手を探したりするんです。従姉妹はその自己紹介に使う写真を撮ろうとしていたんですが、まぁ当たり前ですが綺麗に撮れている写真の方が付き合いを申し込んでくる男が多いんです。これは男性でも同じですが」 ほら。 やっぱりそうではないか。 人間は、見た目が美しいものを好きになるのだ。 老いた醜い己のことなど、好きになるわけがないのだ。 そんな山姥の気持ちも知らず、男は以前カメラを構えていた場所を目線だけで探しながら話し続けた。 「それで、彼女は自分の好きな自然の景色の中で映える写真を撮ってもらおうとしたんですが、プロの写真屋にはなかなか頼めない。そこでアマチュアでもそこそこ撮れる僕に頼んできただけなんです」 まぁ、その日の夕食とビールを奢らせて代金にしてやりましたけど。 「……やはり、人間は見た目で選ぶではないか」 「え?」 苦笑いをしていた男に、山姥は叫んだ。 「今お主が言ったばかりではないか。綺麗に撮られた女の方が男に好まれるのであろう」 「それはまぁ、そうですね。婚活サイトでは写真か年齢か、……無粋な話ですが年収くらいしか相手を選ぶ際の基準がないので」 「だからっ」 「だから何ですか? 僕が貴女に初めてお会いした時、見た目がどうとか言いましたか? ましてや、老いているからと言って、あの鏡をお渡ししましたか?」 そんな。---そんなこと、は。 「言って、ない、……けれど」 「言ってないじゃないですか。僕は、僕の命を助けてくれた貴女の優しさに報いたいと思った。だから手持ちのものの中で、貴女に一番相応しいと思えるものをお贈りしたんです」 もしかして、ご迷惑だったのでしょうか。 貴女がそこまで見た目を気にするのは、僕があんなものを差し上げてしまったせいなのでしょうか。 俯いて黙り込んだ男の姿に、ドクンと心臓の音が大きく波打つ。 「そうではない……! そんな、そんなわけではない。わたしは、わたしは、お主にあの鏡を貰って嬉しかった。初めは怖かったけれど、恐る恐るだったけれど、少しずつ己の姿を覗いてみて、毎日もっと美しくなれたらって」 山姥の心から、ずっとずっと言いたかった想いが溢れ出す。 閉じ込めていた想いが吹き出すように、言葉が口から溢れ出す。 「………」 顔が熱い。 なんでこんなに胸の鼓動がうるさいのだ。 頭に血が上って、怒りを覚えているのではないのに顔が火照る。 ただ彼の姿を影から見ていた時とはまるで異なる感情の爆発に、一番戸惑っていたのは山姥自身だった。 その言葉を大人しく聞いていた男は、我に帰って顔を背けた山姥を見て、またあの柔らかい微笑みを浮かべた。 「---そうでしたか。貴女は、あの鏡をちゃんと使ってくださっていたのですね」 そうか、そうだったのか。 ---だから、だったのか。 何がそうだったのだ、と聴く前に。 男の手が伸びてきて、山姥の皺だらけのはずの頬をゆっくりと撫でる。 ……顔から火が出るかと思った。 「な、突然何をするっ!!!」 飛び上がった勢いで、思わず後ずさってしまう。 そのまま水辺に尻餅をついてしまい、跳ねた水がキラキラと光を反射して落ちた。 「---あの鏡は、持ってきていらっしゃいますか?」 「え……。いや、それは」 持って来ては、いる。 どうせ己と湖に沈むなら共に、と思ったから。 今すぐ返そうと思ったものの、やはり忍びない気持ちが優る。 大切な鏡。お主にもらったもの。 鏡の入った懐を、両手でぎゅっと握りしめた。 「……持ってきてはおらぬ。小屋に置いてきてしまった。大切だから……水の中で、朽ち果ててしまうのが嫌だった」 嘘を、ついた。 罪悪感。 ---すまない。でも。 「……そうですか。じゃあもう、コレしかないな」 水際に座り込んだまま俯いた山姥に、男がそっと寄り添って腰を下ろす。 「今日は随分と凪いでいる。こんな日は、湖面に映る景色が綺麗な写真が撮れるんです」 す、と男の大きな手が山姥の肩を優しく抱き寄せる。 困惑して男を見ると、その瞳は水面を見つめている。 つられて、そのまま凪いだ湖面に目を落とした。 すると、そこには。 「な……な、んで」 少し赤らんだ頰。 見開かれた瞳の黒は濃く、静かにこちらを見返してくる。 髪はしっとりと濡れそぼってはいたものの、少し傾いた陽光を照り返して艶々と光っていた。 湖面に映る娘は、紛れもなく自分の姿だった。 己が鏡と向き合って磨いた、若い女の姿をした自分がそこにいた。
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