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<18>
「ッッッッッ、、、」
声が出なかった。
この湖は、実はかなり深い。
水草も多く、沈んで絡みついてしまったら浮いてくることも難しい。
だから自分も、あえてここを死に場所に選んだ。
一瞬置いて、ゾッとするような悪寒が足元から立ち昇る。
男が沈んでいった先の水面に、大きな黒い影が見えた。
「---水神?!!」
その正体を認識した時、身体が勝手に動いた。
なぜ彼奴がここに、という思いが一瞬よぎったが、理由などもうどうでもよかった。
わたしは彼に死んで欲しくなかったのだから。
派手に飛び散った水飛沫を水面に残し、冷たい水中を進む。
無我夢中で進んでいくと。自由にならない身体とは不思議なほど対照的に、沈んでいく彼の姿がはっきりと見えた。
彼は目を開けたまま、こちらを静かに見つめている。
驚くほど澄んだ瞳に、湖面から差し込んでくる光がゆらゆらと揺れる。
夢中で手を伸ばすと、その腕を強く掴まれた。
そのまま腰を引き寄せられて、広い胸に抱き止められる。
(好きですよ)
耳元で、水の中では聞こえないはずの声が聞こえた。
---ああ、この男は本当に。
嬉しくて、思わず涙が出そうになる。
その雫が湖水と混じって、すぐに消えた瞳の先。
男の後ろに、真っ黒な暗い影が迫っていた。
(……水神ッッッ?!!)
(---何をしている、山神よ)
湖の底からぐんぐんと近づいてくる巨大な影は、漆黒の妖気を纏って襲いかかってくる。
見た目には大鯰の姿、しかしてその正体はこの湖の主だ。
(しばらく前からお前の気がだいぶ乱れていると思っていたが。---まさか、この男が原因か)
(……違う! わたしは、わたしは人間などに)
恋い焦がれたりしていない。
そう、言おうとしたのに。
---まずい。
大鯰の纏う黒い気、これは怒気だ。
水神の怒り。
妖ながら、山神の代わりを務めていた自分。
この自然を守る存在であるわたしが、人と近づき過ぎたことに対する怒り。
(山がお前の気に引かれて活気に満ちたようであったから、一先ず放っておいたのだが。まさか人間如きの為に死のうとするとはな)
(水神! わたしの話を聞いてくれ。確かにわたしはこの男に惹かれた、だが人間と結ばれようなどとは思っていない。それが分かったから、もう諦めたのだ! だから)
人と妖は交わらぬもの。
人と神は触れあってはならぬもの。
一線を超えてはならぬもの。
(人の色恋なぞに憧れて、山を守る使命を忘れたか? この男、生かしては返さぬぞ!)
(〜〜〜、、、やめろ! やめてくれ)
ぶわり、と。
大鯰の発した黒い邪気が辺りへと広がっていく。
その漆黒の闇はみるみるわたし達を取り込むと、あっという間に視界を奪った。
触れ合っていた身体が、一瞬で離れて流された。
(ッッッ、どこじゃ! お主はどこにおる!)
真っ暗になった冷たい水の中で、必死にもがいては男の姿を探した。
が、気がつくと今度は手足が動かない。
水神の意思と力を受けたのか。
いつのまにか手足に絡みついていた水草は、大地に生きるわたしには為すすべもないほど固く動きを封じていた。
……黒い闇が収束していく。
そこは。ああ、そこには。
(その男に何をするつもりじゃ! やめろ!)
(何を言っておる? そもそも湖に身を投げたのは、こやつ自身であろう。死にたいのなら殺してやる)
---それは、確かにそうだけれど!
彼はわたしに、何かを伝えようとしていた。
追って飛び込んだ水の中で視線を交わし、やっと彼の気持ちが分かった気がしたのに。
己のやったこと。
愛する者が、目の前で失われる恐怖。
彼が身をもって教えてくれた。
ああ、わたしは彼のことがこんなにも好きなのだと。
愛しているのだと。
---一番大切なことを思い知った瞬間に、彼への想いを否定されてしまうなんて。
そんなこと、そんなこと。
絶対にされてたまるものか。
この際、わたしはどうなってもいい。
でも。だからどうか、彼だけは。
彼の命だけは、この世から消えないで欲しい!!!
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