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「…………落ち着きました?」 どれほどの時間を泣き喚いていたのだろうか。 声が枯れた後もずっと背中を優しく撫でられていて、気がついた時に空はもう夕暮れだった。 「結局、何だったのじゃ……」 「あなたがこの湖に身投げなんかしようとしたからですよ」 「うぐっ」 きっぱりと言い切られて、ぐうの音も出ない。 泣き止んだ後、お互い何を思っていたのか、湖の中で何があったのか。 ぽつりぽつりと、少しずつだが全てをきちんと話して。 ようやく、何があったのかを理解できたところだった。 「でも、あなたが従姉妹に嫉妬して死のうとするほど僕を思っていてくれたなんて、嬉しくて泣きそうです」 「男が簡単に泣くとか言うものではないわ!」 「じゃあ怒りますね。二度とあんな真似はしないでくださいね。でないとまた僕も貴女を追いかけて飛び込んじゃいますよ」 「ふぐっ!!!」 さっきから、育ち切って殺される家畜のような声しかあげていないではないか。 この山姥が。 この山を護り続けた神と言われた妖が。 「まぁでも、僕も水神様に同じように嫉妬しましたし、おあいこなのかなぁ」 「どういう意味じゃ」 「貴女は本当に鈍いなぁ。あの大鯰は水の中で僕と会話しました。妖力というのか神気というのか、仕組みはよく分かりませんが」 「水神もわたしも人ならざる力を持つ者。 心の思念で会話することくらいなら、造作もないが」 「……僕と出会い、美しくなっていく貴女を見ているうちに我が物にしたくなったと。それで貴女が湖に身投げしたのを幸いに己のものにしようとしたものの、心が僕にあることに気づいて腹を立てたようです」 信じられん。 「信じられないって思ったでしょう今」 「ッッッ、お主読心術が使えるのか?!」 人間のくせに!? 「人間のくせに、ですか?」 「……ッッッッッッ」 「分かり易過ぎます。本当に貴女は可愛い方だ」 「あ、あり得ん! 水神もお主もとにかくあり得ん!」 「そうですか? 僕は貴女ほど美しい方なら、神様にも人間にも惚れられて当然だと思いますが」 「なっ」 「でも、僕は神様が相手でも一歩も引きませんでした。貴女への想いで勝ったんですよ、褒めてください」 「それじゃ!」 あの時、確かに彼は水神に捕まってしまったはず。 それが、どうやって逃げ延びた? 「……多分なんですけど。母が助けてくれた気がします」 「母君?」 それは。 ---それは、もしかして。 「水神様に襲われた時、辺りが真っ暗になって。息もできないし、正直死んだかなと思いました。許さない、お前には渡さないみたいなことも言われましたし」 水神め!!! 彼を殺していたら、わたしが許さなかったぞ。 もう少しで失うかもしれなかった想い人の手を、無意識に強く握り締めていたらしい。 少し驚いたように目を見開いた後、彼は話を続けた。 「……その時、一気に視界が明るくなって。と言うか、光が溢れた感じですね。眩しくてびっくりしていた時に、聞き覚えのある声が聞こえたんですよ」 母の声だったと思います。 そう続けた彼に、思わずびくりと身体を震わせる。 だってわたしのせいなのだ。 結果的に、彼を命の危険に晒してしまった。 どう思ったのだろう。 「---幸せになってね、と。それだけでした」 目を見張った。 そうだ、あの時。わたしも彼女と話したはずだ。 ぎゅっと、手を握り返された。 冷え切っていた身体が、少しずつ温もりを取り戻している。 それがこんなにも幸せだなんて。 「その光が、僕を覆い尽くした闇を振り払ってくれたんです。捕らわれていた力が引いていくのを感じて、夢中で貴女を探した。そうしたら光が収まったところで貴女が目を閉じているのを見つけて」 「また……わたしを助けてくれたのか」 「当たり前でしょう。そこから必死で泳いで、何とか貴女と岸に戻ることができたというわけです」 僕、学生時代は水泳の選手やってたんですよ。 そんなことを話しながら笑う彼の顔を呆然と見つめる。 「そちらはどうだったんです? 貴女もあの闇に呑まれましたよね」 「……実はわたしも、真っ白な光の中で確かに声を聞いたのじゃ。それは---この手鏡に宿っていた者だった」 胸元から、そっと大切な手鏡を取り出す。 彼は驚いたように目を見開いた。 「そう言えば先程は嘘をついたな、すまぬ。---実は持ってきておった。湖の底で朽ちさせてしまうのは忍びなくも、それでもわたしはこれと離れたくなかったのじゃ」 「………」 手鏡に宿った、『彼女』のことを思う。 山姥は背中を押された気がして、ようやく本音を話せる気がした。 「この手鏡には女性が宿っておった。付喪神の類ではない、人間の魂だった。……あれは、お主の母君だったのじゃな。いや、魂というよりは想いに近いものか。---彼女は、これまでわたしがここに貯め込んでいた神気を一気に解放してくれたのだ。お陰で水神の邪気を一時的に退けられた。……自覚はなかったが、随分とこの鏡に想いを込めてしまっていたようだ」 ---ああ。 今なら、素直に言える。 自分の気持ちとまっすぐに向き合える。 「---お主に恋してしまったんじゃなぁ、この山姥が」 口元から、笑みがこぼれる。 目尻から、涙が零れ落ちる。 「醜い見目の妖ごときが、一人ぼっちでこの山を守り続けて数百年。ずっと寂しかったんじゃなぁ。たまに山に来た人間たちが仲睦まじく笑いあっているのが、羨ましかったんじゃなぁ」 やっと認められた。 ずっと気づかないようにしてきた、縁遠いものだと背を向けてきた。 これが恋なのか。 これが、人を愛するということなのか。 「---そして。母君に、息子をよろしくと頼まれた」 「僕も、幸せになってと言われました」 この小さな手鏡が。 これが、全ての始まりだった。 「お主がこれをくれなかったら、わたしはこんな気持ちを知ることはなかったであろうな」 「それを差し上げたのは僕の本心からです。一番美しい物をと。でも母には分かっていたのかもしれません。姿がどうでも、命を救ってくれた優しい女性に恋をした僕の気持ちを」 そして、あなたに万が一のことがあれば助けようと思っていたのかも。 「……この鏡を見るたび。美しくなれたら、いつかまたお主に会えればと思っていた」 「---僕も、何度もこの山を訪れながら。今日は会えるかもって思っては落ち込んで、次こそはきっとなんて期待して。そんなことをずっと繰り返してたんです」 ---僕たち、とっくに両思いだったんですね。 「よかった」 呟くが早いか、握っていた手を勢いよく引かれた。 ……力が、強い。 出会った時に知らずに憧れた、広くて逞しい胸の中に収まりながら。 山姥はようやっと、信じることができなかった想いを受け入れた。 「好き」 嬉しくて、胸が苦しくて、心臓がうるさくて、顔が熱くて。 「お主が好きだ」 素直な言葉だけが、ほろりと溢れ出る。 花が綻ぶように笑ったその笑顔。 数百年もの間あり得なかった、それを見られたのはただ一人だけだった。 「僕も、あなたが好きです。---出会った時から、ずっと貴女が好きでした」 すっかり傾いた陽の光が、きらきらと水面で反射する。 二人の影が夕日に照らされてゆっくりと重なった時、心地よい夏の風が優しく身体を撫でていった。
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