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三鷹さんのことを私はそれほどよく知らなかったが、46歳の若さで亡くなるというのはとても悲しいことだと思った。あるいは彼のことを良く知らないからこそ、その死を純粋に一般的なものとして悲しむことが出来るのかも知れない。私は未だそれほど身近な人が死ぬということに慣れてはいなかった。
それに多分、周りで一番死に近いのは自分自身なのである。
私はいつも死んでしまいたいほどの憂鬱を感じていた。いつ死んでも良いとさえ思う。しかし、自殺を考えたことはない。自殺にはそれなりの理由が要る。極度の貧困だったり、病苦だったり、何だって良いのだけれど、後から世間の人々が噂出来るような何か具体的な理由が必要なのだ。そして考えてみる限り、私には自殺をする理由になりそうな動機はなかった。だから、私は生きている。それは慣性の法則と全く同じようだ。動くものは動き続ける。生きるものは生き続ける。
あるいは慣性や惰性以外に、私が死なない理由があるとすれば、それは責任感によるものだろう。私には妻もいるし、子供もいるのだ。生きるのが嫌になったからと言って、彼らを置いて死んでしまうのは、あまりにも無責任である。きっと既婚者の自殺率が低いのは、彼らが幸せであるからというよりは、彼らの責任感によるものに違いない。
三鷹さんだって、きっと意図して死んだ訳ではなかろう。それを蒸発だなんて、逃げるような書き方をされたのでは故人も浮かばれない。
私は三鷹さんの葬式に行ってやろうと思った。個人的には見ず知らずの他人の死ではあったが、何故か彼の死を悼む気持ちが強くなった。同じ会社の人間なのだから、葬儀に参加したとしても別段変なことではないはずだ。
私はホワイトボードに"ランチ"と書いて、会社の外に出た。空は清々しいほど晴れていた。昨夜の雨で雲は力を使い果たしてしまったみたいだ。コンクリート舗装のの隙間に残った水溜りに、桜の花びらが浮かぶ。
私はベンチに腰掛けて、妻の作ってくれた弁当を広げた。外で昼食を取るのは久しぶりのことだった。桜が散り始めてようやく暖かい日が多くなってきたようだ。会社の中の狭い休憩室で食べるよりはずっと気分が良い。
向かい側では若いOLたちが何人かで花見のランチをしていた。黄色い声が、私の耳にも届く。
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