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人間蒸発の歴史は、都市化と労働力の移動の歴史でもあった。日本に人間の蒸発というシステムが生まれたのは、戦後間もない1950年代から60年代にかけてだった。当時、戦後の復興と急速な都市化に伴って、都市部の労働力は逼迫する。対して地方にはベビーブームで生まれた大量の労働力が余っていた。集団就職として都市部に流れ込んだ若者たちは、土地に縛られない代わりに、拠り所を失っていた。もちろん、そうしたことは江戸時代にも、あるいはもっと昔からあったのだけれど、それほど大規模に人々が都市部に流れ込んだのは、それが初めてであった。多くの人々は東京の人間として生活し、東京に根を張ったが、その中には都会に馴染めないものも一定数いた。しかし一度土地から切り離された彼らには戻る場所もなく、この世から消えてなくなるしかなかったのである。そのような背景によって生まれた"蒸発"というシステムは、いつの間にか社会に、そして身体に、浸透していた。田舎にも、都会にも、居場所が無い人々は、最初からこの世にいなかったことになったのだ。
高度経済成長とその後の経済の停滞は、しかしそのような激しい労働力の移動を抑制し、人間蒸発は下火になる。それでも、システム自体は消えずに残り、そしてまた現代において復活しつつある。今の時代に蒸発するのは、私のような憂鬱なサラリーマンと、そして外国人労働者たちである。
私はようやく"蒸発"というシステムを理解して、そこで私は考えた。蒸発は私の最も理想とする死に方である。あるいはそれは死をも超越した究極の死である。そして私はいつでも蒸発する意思がある。誰にも迷惑をかけないでこの世から消えることが出来るのだ。妻にはちゃんと代わりの夫が出来るだろうし、子供には私よりも頼り甲斐のある父親が出来るだろう。その方が、誰にとっても良いことのように思える。
あとは、天候だけである。雨上がりの、水溜まりが蒸発するような天気の日に、私は消えてなくなるのだ。私は密かにその時を待つ。それは私の退屈な日々に希望をもたらすのだった...。
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