なんもかんもがむかつく

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なんもかんもがむかつく

399b9b92-1441-4bce-b4a9-213a1e8822b8  「キャッチ、ロー」  洋平と洋介の掛け声で、二人乗りボートのダブルスカルが江戸川を走る。キャッチにあわせて四本のオールが水をつかみ、ローで水を押し出す。橋の上にいる母子が滑らかに進むボートが近づいてくるのを見つけて手を振ったが、洋平と洋介は気がつかない。  三月の冷たい風が川面に吹いているが、洋平の頬を伝った汗が足の上に落ちる。  「ラスト五本!」  二人はすでに悲鳴を上げている腕と足をさらに痛めつけた。 「イージーオール」  イージーオールはボートを漕ぐのをやめて、水中からオールを出すための掛け声だ。  ボートは樟脳船のように音もなく川の上を進んでいく。風の強さや水の量が影響しているのか、今日は波がほとんど立っていない。  江戸川には季節を問わず、川の流れが止まって見える時がある。橋の上にいた母子からは、シワのない布地にハサミを入れているように、ボートの軌跡が見えたかもしれない。 「イージー」  二人が水面にオールを下ろすと、四つの波紋が江戸川に広がった。  一見、優雅に見えるボート競技だが 漕者はオールを握る指先から、足を固定するストレッチャーを蹴り押すつま先まで、全身の筋肉を酷使する。レース用の距離である千メートルを漕ぎ終えた二人は、肩を上下に揺らしながら、文字通りぜいぜいと呼吸をして息を整える。二人の高校でのボート生活が終わろうとしている。  洋平と洋介は県大会の決勝戦には何度も出場したが、優勝は一度もできなかった。最後の試合も全国大会への常連チームと接戦の末、ビデオカメラによる判定で負けが確定した。  洋平はいまでも最後の試合を思い出す。スタート直後、レース初出場の他校のボートが洋平と洋介の艇に接近してきた。二人はそのボートを避けるためにコースを修正しながら、オールを漕いだ。そのため二人のボートの軌跡は曲線を描いた。一直線にゴールへ向かっていれば、勝てていた。そうすれば、ボートによる推薦で希望の大学に行けたかもしれない。洋平はボート部のない大学へ進学することになったが、いまでも自分には別の道があったのではないだろうかと考えている。  ボートが止まると、いつもより長い時間を掛けて、二人は握手を交わした。互いの手のひらにできたマメが、ゴツゴツとぶつかり合う。三年間の練習を頑張った証だ。ボートを始めた頃は傷ひとつない柔らかだった手のひらが、皮の厚い男の手になっていた。洋平は自分の手のひらを誇らしげに見つめて笑みを浮かべた。  「キャッチ、ロー」  一艇のシングルスカルが近づいてきた。同級生の空也だ。橋に差し掛かる手前で、空也は「イージーオール」と言って、オールを水平にした。ゆっくりと空也の艇がダブルスカルに近づいてくる。  今月、高校を卒業するボート部員は洋平と洋介、空也の三人だ。入部当時は十人以上の一年生がいたのだが、最終的には三人になってしまった。ボート競技には他のスポーツで見られるような、ファインプレーやスタンドプレーなどの見せ場がない。漕者はボートをより速く進めるためのエンジンに徹する必要があり、ストイックな精神が必要だ。誰にでもできる楽しいスポーツではない。  その点、人から注目を浴びるのが苦手な洋平には、ボートというスポーツは向いていた。日ごろから口数が少ない、洋介も同様だ。だが空也は違う。自己中心的でルールを嫌う目立ちたがり屋だ。洋平はなぜ空也のようなタイプの人間が、ボート部で三年間続けられたのかわからなかった。だから、洋平と洋介の名前が似ているからという理由で、ダブルスカルのペアに選んでくれた顧問の教師の選択に、洋平は感謝している。シングルスカルに一人で乗るならともかく、空也とダブルスカルに乗るのは鬱陶しいと思っていた。  最後の大会は秋に終わっており三人はすでに引退した身だが、ボート部では毎年三月に最後の乗艇を行っている。レースへ挑むように全力で漕いでもいいし、のんびりとボートを漕いでも良い。洋平と洋介はレースさながらに一本目の千メートルを漕ぎきったが、空也はゴールの手前でオールを上げて手を抜いた。艇の準備をしている時、空也は「最後の乗艇だ。全力をつくすぜ」と言っていたのに。空也のこういうところが洋平は嫌いなのだ。  「洋介、もう一本いけそうか?」  「大丈夫だ」  洋介の肩はまだ上下に動いている。現役の時なら千メートルを一本漕いだ程度で体力を使い切ることはなかった。数ヶ月、練習をしないだけで体力がかなり落ちている。洋平自身も呼吸の乱れが収まらず、それを実感している。  「少し辛そうだぞ」  洋平は左手のオールを川の中に沈め、右手のオールを腕だけで漕いでボートの舳先を川上に向けた。あと何本漕げるだろうか。体力が続く限りやりたいが洋介は辛そうだ。練習ではないのだから無理に漕ぐ必要はないが、最後の乗艇なので気力と体力がなくなるまでやってみたい。  「イージーオール」  オールに力をこめようとした時、空也が掛け声を掛けた。冷やかすような目つきで空也が洋平と洋介を見ている。もうやめようと言っているのだ。洋平は空也を睨んだが効果はなかった。  「もう上がろうぜ」  洋平は空也の言葉を無視してオールを捌こうとしたが、空也は洋介がボートを漕げないようにオールを使って邪魔をした。子供じみている。洋平の眉根の間にシワがよる。それでも洋平がボートの向きを変えようと漕ぎはじめると、今度はオールのブレードを操って川の水をダブルスカルに掛けはじめた。  「もういいじゃん、やめようぜぇ」  空也がオールのブレードで川面を引っ掻いて水を飛ばす。コツを掴んだのか水が飛ぶ距離が伸びてきている。水しぶきがオールや船体にあたり、やがて洋平の手も濡らしはじめた。江戸川の青臭い水の匂いが不快感を増す。水の冷たさがそれに拍車を掛ける。体に水を掛けたらキレてやる。洋平はそう決めた。  江戸川には鯉がいる。ボートの練習をしているとオールを水に潜らせる音に驚くのか、大きく飛び跳ねる時がある。たいていは体をくねらせたまま空中に舞い上がり、そのまま川へと落ちていくのだが、運が悪いと鯉はボートに直撃したり、ひどい時はボートの中に落下したりする。ボートの中に落ちた鯉は体を傷つけ鱗を散乱させながら大いに暴れた後、川へと戻されるが、ひと騒動終えたあとのボートは生臭く、練習を終えて引き上げなくてはいけない。  洋平の体に空也が飛ばした水が掛かった。しかし洋平がキレるより早く、空也のオールに反応した大物の鯉が三人のすぐ近くでジャンプした。そして体をくねらせた鯉は洋平のすぐそばに落下。洋平の体に大量の水飛沫を浴びせた。  茫然とする洋平を見て、空也は腹を抱えながらボートの上でもがき苦しんだ。空也ほどではないが、洋介も笑っている。  「ほら、見ろよ。鯉も上がろうって……」  空也の笑いがとまらない。洋平は怒りを空也と鯉のどちらに向ければ良いのか分らなくなり困惑した。空也と洋介の笑いの熱が引くと、三人は自然とボートを川岸へと向けて漕ぎだした。  洋平は一度だけ空也に言ったことがある。部長である自分に指図をするな、後輩たちの前で示しがつかないと。しかし、それは建前であり、本当のところは空也が気に食わないという気持ちに理由をつけたに過ぎない。  だが空也は洋平の気持ちを汲むことなく笑いながら答えた。  「洋平は海の名前だから、低いところからしか物事見えてないんだよ。俺は空の名前だから、高い所から見てて色々なことに気がついちゃうんだよな。だからつい言っちゃうんだよ」  洋平は拳を握り締めていたが、空也に叩きつけることはできなかった。暴力を使っては後輩たちに示しがつかない。洋平は怒りで体が震えることを初めて体験した。震えがとまると涙がこぼれた。そして洋平は空也にかかわるのをやめた。洋平の心のうちを知らない空也の態度は結局変わらなかった。  空也はシングルスカルを、洋平と洋介はダブルスカルを川からあげた。ボートを保管する艇庫は、川から少し離れた土手の近くに建っている。距離は二百メートルほどで、足場の悪いあぜ道を歩いていく。ボートとオールを一度に運ぶことはできないので、最初にボートだけを担いで艇庫の前に移動し、再び川までもどってオールを持ってくる。三人はボートとオールを水拭きしてからタオルで乾拭きし、艇庫にしまった。この作業も今日で最後だ。洋平は艇庫の入り口のシャッターを下ろして鍵を掛けると、体育教官室にいる部活の顧問に鍵を返した。  部室に行くと空也と洋介が自分の荷物を入れたカバンを枕にして、床に寝転がって雑誌を読んでいた。洋平は家に持って帰るものと、捨てるものを分けながら自分のカバンに荷物をつめた。  「洋平、この後ってどうする?」  空也が雑誌のページを捲りながら言った。  「先生が後片付け終わったら、挨拶に来いってさ」  「そうじゃなくって、今日の夜だよ」  「別に何もないよ。家にいる」  「ふーん」  洋平は空也の次の言葉を待っていたが、雑誌のページが進むだけだった。洋平が膝を立てて立ち上がろうとすると、空也が言葉を続けた。  「昔のボート部ってさ、最後の乗艇日に部室でタバコ吸いながら朝まで酒飲んでたらしいぜ」  「昔っていつだよ」  「二十年くらい前かな、石渡先輩が言ってた」  三つ上のやんちゃな先輩の名前が出てきて、洋平の体はすくんだ。洋平たちがボート部に入った時には、卒業している年代の人だが、なぜかその人は江戸川にいた。それも改造したバイクに跨って艇庫の前に現れ、理由はわからないが三年生を怒鳴りつけていた。「ボートなんて力のあり余ったバカがやるもんなんだよ!」  何に対して怒っているのかはわからなかったが、石渡がそう言ったのを洋平は覚えている。そして新入部員たちはその光景を見て震え上がり、一年生の何人かは部室で退部届けの書き方を教えあった。洋平が石渡を見たのは、その時だけだったが、いまでも名前を聞くだけで体が硬くなる。空也はどうやって石渡から情報を得ていたのかは気になったが、聞かない方が良い気がした。  「二十年って俺らが生まれる前じゃないか。それでも、部室でタバコと酒は無理だろう。先生が来たら一発でアウトじゃん。この時期の停学なんて進路に影響するから、さすがに冗談じゃない?」  空也が手招きをする。洋平は後片付けの手を止めて、空也の近くに寄った。洋介も近くに来る。  「ここ見てみろよ」  空也は部屋の隅に置かれたゴミ箱を持ち上げた。ゴミ箱が置かれていたところの畳を見ると、正方形に切込みが入っておりタコ糸が一本出ている。空也がタコ糸を引き上げると畳が持ち上がり、下から灰皿が出てきた。  「いまの体育教官室って、昔は体育用具入れに使ってたらしいんだよ。だから顧問が部室にくることなんて滅多になかったんだけど、どこの部室でもタバコとか置いてある状態だったから先生にばれちゃって、監視の意味もあって体育教官室をいまの場所に引越したんだってさ」  空也は灰皿を取り出すと畳に置いた。白い灰皿には英語が書かれているが、読めないほど汚れている。爪で汚れを引っかくとNO SMOKINGの文字があらわれた。  「俺たちもやってみるか?」  「やめろよ!」  言い出したのは空也で、反対したのは洋平だ。  「もし見つかったらどうするんだよ。ばれたら停学になるし、下手したら大学に行けなくなるじゃないか」  「大学は合格したんだから、関係ないだろう」  「停学になって、卒業できなくなったら大学に行けないだろうが」  「大丈夫だって、停学になったって卒業はできるよ」  「だめだ。絶対だめ。やるならお前一人でやれ、それに部室は使うな。家に帰って勝手にやれ」  「洋介は……」  洋平が空也の言葉をさえぎった。  「洋介もやらない! 俺たちを巻き込むな。いままで言わなかったけど、お前、むかつくんだよ。今日だって、俺はもっとボートに乗りたかったんだ。ボートに乗ることなんてこの先ないんだぞ。それをお前が言うから!」  洋平の突然の爆発に、物怖じしない洋介の口がぽかんと開いていた。だが胡坐をかいた空也は、立ち上がった洋平を見上げながら平然と言う。  「俺は言ったかもしれないけど、それを決めたのはお前だろう。乗りたければ、乗ってれば良かったじゃないか。いまからでも一人で乗ればいいだろう」  「お疲れ、じゃあな」  空也とは話をしたくない。洋平は後片付け途中の荷物を持って部室を後にした。体育教官室には一人で行き、急用ができたからと顧問への挨拶を早々に済ませて家に帰った。
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