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母へ
洋平は自分の部屋に入ると、荷物を置いてベッドに寝転がった。机の上には最後の試合が終わった時に撮影した洋平と洋介、空也の三人が笑みを浮かべながらピースをしている写真が飾られている。洋平はベッドから起き上がると、ドスドスと床を踏鳴らしながら机の上の写真を伏せた。収まり掛けていた怒りが、沸いてきたのだ。
気が済むまでボートに乗れなかったことや、空也の言葉に反論できなかったこと、何のフォローもしてくれなかった洋介にまで、洋平は腹を立てていた。本気でボートに乗りたかったら、空也が言うように今からでも学校に戻ってシングルスカルに乗ればいいのだが、顧問に最後の挨拶をしたからとか空也に会ったら喧嘩になってしまうとか、色々と理由をつけて行動しない自分にまた腹が立った。
大学には行かないといけないのだろうか。スポーツ推薦の枠から外れた時に、自暴自棄になってボート部がない適当な大学を選んだことを、洋平は後悔している。試験に合格した時も、喜びより消沈する気持ちの方が大きかった。浪人という言葉が頭の中に浮かびはするが、大学合格を伝えた時の両親の笑顔がそれを打ち消す。大学に入学するには、安くないお金を用意しないといけないことは洋平もわかっている。しかしボートに乗りたいという気持ちは捨てられない。だからこそ今日は気が済むまでボートに打ち込みたかった。
階下からテレビの音が聞こえる。洋平の母親がリビングで寛いでいるようだ。洋平が母親と話をしなくなったのは、中学の終わり頃だっただろうか。思春期特有の母親を毛嫌いする時期が洋平にもあったが、今でも話をしないのには彼なりの理由がある。
大学の話をするだけなら悲しむこともないだろうと、洋平は階段を下りて母親がいるリビングに向った。母親はソファで横になりながらドラマの再放送を見ている。隣に座るのは抵抗があるので、洋平は壁にもたれながら母親を呼んだ。
「ママ……」
洋平が母親と話をしなくなったのは、この呼び方によるものが大きい。来月から大学に行こうとしている男が、母親のことをママと呼ぶのは恥ずかしいことだと思っているのだ。しかし、今さら呼び方を変えるのは照れくさいし、オフクロと呼ぶのは古臭くてぶっきら棒なイメージがある。お母さんだと優等生っぽい感じがして自分らしくない。
「何、洋平」
「あのさ、大学の入学金っていくらくらいするもんなの?」
母親は久しぶりに話し掛けてきた息子の顔を見ていたが、洋平は目をそらすように宙を見つめていた。
「うん十万円よ。そんなの子供は知らなくていいのよ。ちゃんと勉強してくれれば」
「それってもう払ったの?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
母親は洋平の顔を見つめ続けていた。
「別に……」
部屋の隅に視線を泳がせていた洋平だが、目の端に映る母親の直視に耐えられず、話を切り上げて自分の部屋へと戻った。ベッドに寝転がり布団をかぶりながら、聞かなければ良かったと洋平は思った。自分が何を考えているのか、ママは気がついたかもしれないと思った。
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