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バウサイド
枕元に置いた携帯電話が鳴り、洋平は目を覚ました。真っ暗な部屋の中で電話の着信を知らせる赤いランプが点滅している。窓の外は暗い。携帯電話の液晶画面を見ると、朝の四時を知らせていた。電話を掛けてきたのは空也だ。昨日のイライラがよみがえる。机の上の写真立ては伏せられたままだ。それでも空也がこんな時間に電話をしてきたのは大事な用件なのだろうと、通話ボタンを押した。
「洋平、起きてたか!」
起きているわけがない。朝早くに電話してきたことを謝るのが先だろうと、洋平は思った。
「寝てるに決まってるだろう。朝の四時だぞ」
「今すぐ江戸川に来い。艇庫の前だ」
「なんでだよ」
「いいから来いって、一生後悔するぞ」
寝惚けた振りをして電話を切ってしまおうと思ったが、空也の言葉で洋平は目を覚ました。
「洋介はもう来てるぞ」
「洋介が? 代わってくれ」
すぐに洋介の声が聞こえた。
「洋介、なんでこんな時間に江戸川にいるんだよ」
「聞くよりも自分の目で確かめたほうが良い。遅れたら本当に後悔するから」
洋平は渋々、ベッドから出て私服に着替えると、親を起こさないように爪先立ちで階段を下りた。玄関のドアは、取りつけられた鈴が鳴らないように手で押さえながら開けた。庭に置いた自転車のサドルが濡れている。湿気が多いのだろう。洋平は手で露を払いのけてサドルに跨った。
急いで自転車をこげば、学校までは一時間とかからない。洋平がこんな時間に学校へ行くのは初めてだ。三年間通っている通学路が朝の街灯に照らされるだけで、いつもと違う道に見える。
家を出た時は真っ暗だったが、学校が近づくにつれ町並みが白んできた。立ちこぎする洋平の顔がしっとりと濡れているのは、汗をかいたからではなく、朝靄のせいだ。国道の高架下を抜けるトンネルを抜けると江戸川が見えた。洋平は土手沿いに自転車を走らせる。
土手の下に二台の自転車が止まっているのが見えた。空也と洋介の自転車だ。二人の姿も見える。向こうも気がついたのか、空也が洋平に手を振った。空也の顔を見て洋平は腹を立てていたことを思い出し、語気を強めて言った。
「来たぞ。これで俺は後悔しないのか」
「まだ大丈夫だ。早く自転車から降りろ。艇庫に行くぞ」
洋平が自転車を止めると、三人は土手を上りはじめた。艇庫は土手を越えたすぐ下にある。先頭を歩いていた空也が土手の途中で立ち止まった。
「先に行けよ」
洋平は言われるまま、先頭を歩いた。そして土手を上りきった時、洋平は思わず声を上げた。
「おおおおおおおおおお」
毎日のように見てきた江戸川が土手を壁にして、いっぱいの霧を溜め込んでいる。川霧だ。霧の上面が風もないのにゆっくりとうねる様が川の流れのように見えた。いつもなら土手の上から艇庫が見えるのだが、今はうっすらと屋根が見えるだけだ。
土手を隔てた反対側は霧がなく、いつもの町並みが広がっている。自分たちしかこの景色を知らない。そのことも洋平の心をとらえた。茫然。空也が肩を叩くまで、洋平は立ち尽くすことしかできなかった。
「どうだ? これを見なかったら後悔するだろう」
「あ、ああ」
洋平の怒りは消えていた。
「艇庫の前に行こうぜ」
空也に言われ、洋平は土手を下りた。霧の中に入ると首筋がひやりとする。深呼吸をすると自転車をこいで熱くなった身体が冷えた。視界は思ったより悪くなく、艇庫はすぐに姿をあらわしたが様子がおかしい。シャッターが半分だけ開いている。空也はシャッターを開ける鍵を持っていないはずだ。部員は毎日帰る時に、顧問の教師に鍵を返却することになっている。昨日は洋平が鍵を返した。
「洋平、ボートに乗るぞ」
言いながら空也はシャッターを全開にした。艇庫の鍵が開いているということは、顧問から許可をもらったと思って良いのだろうか。洋平はその点を気にした。昨日のことがあるので、ボートには乗りたい。しかも霧の中での乗艇という三年間で一度もなかったシチュエーションだ。
「空也、艇庫の鍵は先生から借りたのか?」
「いいや、借りてないよ」
空也は悪びれるでもなく答えた。洋平は昨日の怒りを思い出した。
「じゃあ、どうやって鍵を開けたんだよ」
艇庫の中から足音が聞こえてきた。鍵とキーホルダーがチャラチャラとぶつかる音も聞こえる。洋平の見覚えのある顔が、暗い艇庫の中から現れた。ライダーシューズにブラックジーンズ、腰にはウォレットチェーンがぶら下がっている。石渡先輩だ。チェーンの先のドクロが洋平をにらむ。洋平は慌てて頭を下げた。
「俺が開けてやったんだけど不満か?」
なぜ石渡先輩がここにいるのか? 洋平の疑問を察した空也が言った。
「おれさ、先輩と幼馴染なんだよ。ボート部も先輩に勧められて入ったんだ」
洋平が恐る恐る顔をあげると、石渡と目があった。
「不満か?」
「いいえ、不満はないです」
洋平は再び頭を下げた。石渡先輩が空也と幼馴染だと、なぜこんな時間に艇庫にいるのかはわからなかったが、一年生の時に聞いた石渡の怒声を思い出し、怖くて顔をあげられない。下を向いたままの洋平の視界に空也のボート用のサンダルと、石渡のライダーシューズが並んだ。
「石渡先輩、ひとつ教えてください。先生はこのこと知ってるんですか?」
「知らない。俺の一存だ」
先生の許可なくボートには乗れない決まりだが、洋平に言い返す勇気はない。
「洋平どうする。ボートに乗るか? 石渡先輩が許可してくれたから、俺は乗るけど」
いくらボート部の先輩とはいえ、今は部外者だという気持ちが洋平にはある。空也だけなら殴ってでもボートに乗せない思いはあったが、石渡は怖い。空也を止めることは石渡への反抗になる気がした。洋平は顔を上げると空也に向かって言った。
「俺は乗らない」
「好きにしな。洋介、オールとボートを運ぶのを手伝ってくれ」
洋平は艇庫に背を向けて土手を上った。空也と洋介は艇庫に入っていく。
洋平は土手を上ると遊歩道に座った。元部長として帰るわけには行かない。彼らを見届ける義務があると思った。ジーンズ越しにコンクリートの冷たさが伝わってくる。
艇庫から二本のオールが出てきた。霧に隠れているので誰が持っているのかはわからないが、立てられたオールのブレードが霧の上に見え隠れしている。
洋介はなぜ空也の手伝いをするのだろうと、洋平は心細く感じた。三年間、ダブルスカルでペアを組んでいた自分の気持ちを汲んでほしいと思ったが、洋平の片思いはすぐに裏切られた。艇庫からもう二本のオールが出てきたのだ。ボート部にはシングルスカルが一艇しかない。計四本のオールを出すということは、空也と洋介のペアでダブルスカルに乗るということだ。
風は相変わらず止んだままだったが、霧はたえず揺れていた。中でも四本のオールを包む霧がひときわ大きく揺れている。
前を進んでいたオールが立ち止まった。後ろを歩くオールを待っているのだ。後ろを歩くオールが前のオールに追いつくと、四本のオールは並んで川へと歩き始めた。
「遅いな、早くこいよ」
「まだ眠いんだよ」
空也と洋介のそんなやり取りが、洋平には聞こえるようだった。まるで恋に破れたかのように胸が締め付けられる。洋平は足を抱え込み、膝頭に目を押し当てた。自分が何をしたいのか、わからない。顔をあげると、膝頭に大きなシミができていた。
川辺に運ばれたオールが横に寝かされると、空也と洋介は艇庫に向かって走った。洋平のいる場所からも霧が大きく揺れるのが見える。艇庫から出されたダブルスカルが、新しいペアに運ばれていく。洋平は、その光景を黙って見ていた。
土手を上ってくる石渡に気がついて、洋平は立ち上がった。「お疲れ様です」と声を掛けたが、返事はない。石渡は洋平の隣に立ち、タバコを一本取り出して火をつけた。煙と霧が混ざり合う。
「おまえは乗らないのか?」
「僕は良いんです」
石渡が燻らすタバコの煙が川霧と重なる。石渡が深呼吸をするように煙草の煙を吐き出すと、息吹が江戸川に届いたかのように霧の一部が揺れた。空也と洋介が乗るダブルスカルが出艇したため、霧が動いたのだ。
「石渡先輩、二人はダブルスカルに乗ったんですよね」
洋平の声は涙で震えていた。
石渡は何も答えず、深呼吸をするように煙をふぅと吐き出した。
不意に洋平は土手を下りた。石渡に何も言わずに小走りで坂を下りる。零れた涙を石渡に見られないように一歩を踏み出したのだが、そのまま洋平は艇庫に入って二本のオールを担いで江戸川へと向かった。何かを考えての行動ではなく、身体が勝手に動いていた。
川岸まで来るとダブルスカルが水の上を走るのが見えた。二人の掛け声も聞こえる。洋平は川岸にオールを置くと、急いで艇庫にもどってシングルスカルを担いだ。洋平は入部当初から洋介とダブルスカルに乗っていたため、シングルスカルでの乗艇経験がない。二人乗りが一人乗りに変わるくらいだろうと洋平は思っていたが、いざ艇を川に浮かべて乗り込むと、そのちがいに驚いた。ダブルスカルと比べてシングルスカルは安定しない。川に接するオールの数が二本少ないだけで、艇は容易にひっくり返りそうになる。体制を立て直しながら、自分は一人なんだと洋平は思った。ボートが江戸川を滑り出した。
「そーれ」
バランスをとりながら洋平のシングルスカルが川霧の中を進む。
「キャッチ、ロー」
自分で声を出して、自分で行き先を決めながらボートを漕いでいく。洋平はレース用のスタート地点までボートを進め、下流へと舳先を向けた。
「スタート用意……」
洋平が一人きりのレースをスタートさせようとした時、大きな鯉が空中に舞い上がりシングルスカルを越えて江戸川に落ちていった。
昨日の鯉が応援してくれている、と洋平は捉え、オールを握りなおした。
「用意、ロー!」
洋平はストレッチャーに固定した足を蹴り、オールを強く漕ぎ出した。シングルスカルが川の水を切り、スピードを上げていく。
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