1ー6

1/1
前へ
/14ページ
次へ

1ー6

 俺は大学時代の教職の講義を思い出していた。日本では、平安時代に貴族の子供の教育機関として「大学寮」という名称の学校が存在した。また、寺院などを中心に教育研究のための施設が設けられることがあった。  平安時代の教育は、原則として貴族や郡司の子供らを対象にしており、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、空海は、『綜藝種智院式并序』を著し、全学生および教員への給食制を完備し、身分や貧富に関わりなく学ぶことのできる教育施設、あらゆる思想や学芸を総合的に学ぶことのできる教育施設を設立することを提唱した。その運営を実現するため、天皇、諸侯、仏教諸宗の高僧ら、および一般の人々などに協力を呼びかけた。そして、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受け、828年に「綜芸種智院」を開設した、とされる。綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた点で画期的な学校であったとされる。  江戸時代の教育は、身分ごとに武士としての教育と農民としての教育の二重の系統が見られた。江戸時代の初期には武士の教育は漢籍の素読や武芸の稽古などを主に家庭教育として行っていた。 18世紀半ばには各藩が藩校(藩学)を設置するようになり藩士の教育にあたった(一部の藩では領内の庶民も教育の対象としていた)。  さらに藩校での教育に物足りなさを感じたり、所与の文化環境に満足しない者は私塾や家塾に通って教育を受けた(一部の塾は士庶共学として庶民にも開かれていた)。一方、庶民の教育は日常的な礼儀作法、地域社会のルール、家職の知識や技術などを家庭で教育していた。しかし、江戸時代中期になると貨幣経済が発達し、商人層は日常的な商取引のための読み・書き・そろばんといった基礎教育が必要となり、農民層でも商品作物の栽培や販売などのための一定の知識が必要とされ、その需要から「寺子屋」と呼ばれる教育施設が多数生まれた。  明治初期に、小学校および師範学校が設立された。そのとき、教科書は江戸時代使われていた往来物と呼ばれる既存の書籍が中心だった。 「大変だぁっ!怪物が現れた!」  トイレに行っていた北島恭介が真っ青な顔で言った。 「おまえはゲームのやり過ぎだ」  学級委員長の剣持恵介が言った。  上から目線で物を言う、彼を俺は心底嫌っていた。  どうやらこの学校には俺と同じ人間の種族の人間がいるようだ。  俺はバタフライナイフで剣持を刺し殺した。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加