プロローグ

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 ――二両編成の古い電車は、塗装の剥がれた素肌を晒してさ、カタンコトンと足音を立てていたんだ。山間(やまあい)を抜ける彼の視界に変わらぬ夏の光景が広がって、光を受けて輝く線路が穏やかに老体を迎え入れていた――。 車内で、桜井八尋(さくらいやひろ)は夏に対する想いを再確認していた。車窓からのぞむ風景は、天真爛漫な緑と澄みわたる青がひろがっている。彼にとって初めての地だったが、素朴な田舎の姿は記憶の片隅で眠る原風景と瓜二つだった。 首を捻って眺めていたせいで痛みが出始めたころに八尋は向き直った。眼前に相対する形でおじいさんがちょこんと座っている。先頭車両に数人の乗客がいたが、八尋の乗る車両には誰も乗っていないはずだった。  駅員の制服に身を包んだおじいさんは、若干透けている。〈どうりで、やけに冷房がきいていると思った〉彼は胸裏で呟いた。まじまじとみていると、不意に顔を上げたおじいさんは、八尋に目を合わせてニコッと微笑んだ。穏やかな目だ。悪霊の類ではないだろうと彼は思う。 「帰省ですか? それとも旅行でしょうか」おじいさんはいった。 「帰省ではありません。旅行……ですね。科戸町(しなとまち)に」 「ほお、科戸町ですか。変わったかたですな。なにもない田舎に旅行とは」  八尋は少し困った顔をした。 「ええ、まあ。自分、写真家をやっていましてね。友人から紹介されたんですよ。科戸町は良い写真が狙える場所が沢山あるから、と」 「なるほど、売れない写真家さんですか。それなら納得です」 「おいジジイ、売れてないなんていってないぞ。亡霊だからって調子に乗るなよ」  八尋がにこやかに笑いながら本性を晒すと、おじいさんは屈託なく笑った。 「やはり気付いていましたか。いやいやすいませんね。久々に私がみえる人に出会えたもので、ついからかってしまいました」  無邪気な人だな、と八尋は呟いた。「それで、じいさんみたところ駅員の亡霊みたいだな。乗客気取りで電車に乗っていないで、仕事したらどうだ」 「死んでまで仕事はしませんよ。歳ですしね。私はね、待っているのですよ」 「待っている。誰を。まさか俺とかいわないでくれよ」 「いえいえ、電車ですよ。この電車が死ぬのを待っているんです」
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