【八月三日】写真

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自販機を見つけるたびに休憩をとりつつ一時間半ほど歩いて、二人は森を割ったような県道を通っていた。左右の森からセミの声が雪崩のように降り注いでいる。 それまで、新しいおもちゃを手に入れた子供のようにはしゃいでいた神夜が、親に叱られたかの如く急に意気消沈した。 その理由を八尋は分かっていた。五十メートルほど先に亡霊がいる。  炎天下で熱せられたアスファルトから陽炎が立ちのぼり、所々塗装の剥げたガードレールに件の亡霊が涼しい顔をして座っている。全体的に細い体つきで、茶髪のロングヘアー、ジーンズに黄色いティーシャツをきた今風の大学生のようないでたちだ。しかし、その顔は血にまみれ、ティーシャツには赤黒い染みが、破れたジーンズからはひしゃげた足が飛びだして、ぷらぷらと揺れていた。 怯える神夜をしり目に八尋は平然と近づいていって、彼女の隣に座った。  八尋は「こんにちは」と挨拶して、すぐさま立ち上がる。高熱のガードレールに生身の体では辛すぎた。 亡霊は八尋の顔をまじまじと眺め、陰鬱な顔をほころばせてみせた。「こんにちは。挨拶してくる人なんて、初めて会いましたよ」 「でしょうね。ただでさえ田舎町で人が少ないのに、それに輪をかけてここは交通量が少ない。たとえ見える人がいても素通りしてしまうでしょうし、話しかける人間は稀でしょう」 にこやかな亡霊の若い女とカメラ片手に飄々とした態度で受け答えする男。その様子は神夜にしてみれば、奇妙な光景だった。 いかにもなおどろおどろしい姿で事もなげに受け答えする女は、神夜のなかにある幽霊像とはあまりにもかけ離れていたし、対する八尋の応答も、相変わらず彼女が考えうる霊能者の対応と食い違っていた。〈やっぱり、おかしいのは私のほうなのかな〉と彼女が思うほどに、眼前の二人はごく自然的だった。 「あ、あの……」  神夜は引きつった顔で話しかけた。亡霊は彼女を見て少し驚いた顔をした。 「あれ? さっき会ったね。目が合ったから、もしかして、とは思ったんだけど、見える人なんだね」 そういってけらけら笑う彼女に神夜は不器用な愛想笑いで応えた。「最近、見えるようになりました……」 それから八尋と神夜は自己紹介を済ませ、彼女は奥沢彩友美(おくさわあゆみ)と名乗った。 「それで……なぜそんなことに?」  八尋の問いかけは、亡霊にとって最もデリケートな質問だ。死者が自身の死を見つめることは、死の瞬間を呼び起こし、ときに発狂するほどの衝撃を与えることがある。霊が悪霊へと変貌することもあるほどだ。彼が突っこんだ問いを投げかけたのは、彼女の受け答えから、自分の死を受け入れているとふんでのことだ。  彩友美は胸を撫で下ろす仕草をして、彼の思った通り淡々と話しはじめた。 「あの日も夏で、夜でも凄く暑かったなあ。私は友達と夜遅くまで飲んで……悪いとは思いつつも、酔っぱらったままバイクに乗って家にむかったの。こんな田舎町だから、飲み屋がある繁華街はかなり距離があってさ。ここら辺に来る頃には、空が薄っすらと白みはじめてた。それで『ああ、もう朝かあ』なんて思っていたら、急に目の前に人影が現れたの。あれはたぶん七、八歳くらいの子供……後ろ姿しかみていないから分からないけど、坊主頭の子供だったね。そして、気付いたら私はこんなんなってた。ハンドルを切って転倒して、あのコンクリートに突撃して――即死ってところかな。死んでからしばらくなにが起きたのか分からなかったよ」 「事故か」 「きっとお酒を飲んだ罰が当たったんだ。お母さんもお父さんにも辛い思いをさせちゃって……。償っても償いきれないよ」  悲しそうな表情で彩友美は俯いた。 「それなら、ここにいないで両親のもとへ行ってやったらどうだ?」 「いや、そうしたいのはやまやまなんだけどね。心配なんだ。……あの時、よく覚えていないんだけど、あの子供を轢いちゃった気がするんだ。気付いたときにはもう、避けられないくらいの距離だったから……。だから、あの子がどうなったかが分かるまでここにいようと思ってね。もし生きてたなら、またここに来るかもしれないし、亡くなっていても来ると思う。それが今の私にできることで、それが私の罰だと思うから」 「……無事だと良いな」 「はい」彼女はにっこりと笑った。  しばらく三人は談笑し、やがて八尋の一声でお開きにした。彩友美はいくらでも会話ができるようすだったが、生身の人間からすれば熱中症と隣り合わせだ。ワイシャツが噴きだす汗をはね返して、これ以上の長居は危険だと知らせてくれている。「それじゃあ俺たちはここらで失礼する。また時間があったらここに来るよ」 「ええ。またいつでも来てください。お話ができてうれしかったです」  神夜が恐る恐る会釈をすると、彩友美は微笑んで会釈を返した――。 しばらく歩いて神夜は振り返る。目一杯に広がる真夏の情景のなかで、ひっそりと陽炎に揺れる亡霊の姿が、夏に取り残されてしまったようで物悲しく見えた。あの亡霊はいつまであそこに留まっているのだろうか。いつになったら罰は終わるのだろう、と彼女は思いながら、その光景を忘れまいと心に刻んだ。 「みてくれがアレでも、生前の姿を保っているのなら話は大体通じる。事故で死んだりすると、亡霊になって初めて見る自分の姿が、そのままの形で残ることが多いんだ。気にしなくていい」八尋は亡霊を見据えていった。  神夜は小さく「うん」と答えた。  猛暑のなかで歩き疲れた二人は、家に帰ろうという話になり帰路についた。   帰り道、八尋は彩友美に対して抱いた奇妙な違和感を反芻していた。この時期、空が白みはじめるのは朝五時前後だ。朝というより未明の時間帯で、七、八歳の子供が道路上に一人でいるというのは考えにくい。彼女が本当に見たものはなんだったのか、それは分からない。ただ、万が一それが霊の仕業だとするのなら、人を一人殺めたことになる。よほどの悪霊といえるだろう。滞在三日間で彼は、多くの謎の裏に、世にも恐ろしい存在が科戸町に巣食っているような気がして、暑さのなかにうすら寒さを感じていた――。
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