【八月四日】影

2/3
53人が本棚に入れています
本棚に追加
/54ページ
同日、セミの合唱がすっかり声を潜め、カエルの合唱が勢いを増してゆくころ、彼は線香花火の入った袋と缶ビールを手に、川沿いの土手を歩いていた。幅数メートルの小川で、真っ暗で見えない川底からせせらぎの音だけが聞こえる。雑草の葉先で足首を切らないよう踏みしめながら、彼は遠くを眺める。さきほどまで夕日に染まっていた空が、山々の頭上で名残惜しそうに、僅かな蘇芳色(すおういろ)を残していた。  誰かが野焼きをやっているのか、黒い煙が亡霊のように立ちのぼって、山が霞んで見える。渋さを感じる香ばしい匂いを生温い風が運んできた。なにを燃しているのか分からないが、懐かしい香りだ。子供の頃にしょっちゅう嗅いでいた匂いを、彼は胸いっぱいに吸いこんだ。決して体に良いものではないだろうが、嗅がずにはいられなかった。 昼間に撮り歩いた画像データは、パソコンに取りこんだまま放置している。そこからさきの作業は明日でもいい。夜は亡霊たちが騒ぎ出す時間。そんな時間帯に亡霊と向き合うようなことはしたくない。だからいまは風情に浸るときだ。喉にビールを流しこんだ八尋は、いまだ火照った地面から放たれる熱気を浴びつつ、しゃがんで線香花火を一本、袋から引き抜いた。 ライターで火をつけて、期待を胸にようすを見守る――。  はじめは(つぼみ)。玉が生まれて、花を咲かせようと表面が小さく波打つ。続いて牡丹(ぼたん)が現れた。ぽつぽつと繊細な光を発しては消え、その間隔が短くなるにつれて、松葉に移行していく。弾けるように細やかな火花が舞って、美しい球体の空間を形作った。優しい灯りが暗闇のなかで仄めいて、八尋の顔をそっと照らす。やがて語り部の声は次第に遠のいて、枝垂れゆく光の細刃(ほそみ)は柳へと変わった。か弱い物語の結末は散り菊となって、無情にもぽとりと落ちて終わる。 花火とは喜の性質を持つもの。しかし、線香花火だけは哀に訴えかける。いまの自分の人生を形容するのなら、さながら火花を失って、落ちる手前の玉のようだと八尋は思う。二年前までは激しく燃え盛る火花を、どこまでも遠くへと散らしていたはずだ。ところがあの日を境に、急に勢力を失ってただの玉になってしまった。あとはしぶとく持ち手にしがみついて、落ちるのをいまかいまかと待つばかりだ。  線香花火は一瞬の物語を見せて、火薬の混じった切ない香りを後に残して消えてゆく。彼はその儚い美しさが連れてくる背徳感に浸りたいがために、次々と光の寸劇を消化していった。  夜の帳が降りきって、鈴虫やコオロギの鳴き声が彼の周囲を取り囲む。さすがに同じ物語をなんども見続けるのは退屈だ。いい加減に飽きて束ごと燃やそうかと考えていたとき、彼はふと舞い落ちる火花の奥で、川底に妙な物体があることに気がついた。闇を漂わせる水面に、黒い輪郭が円を描いている。目を凝らそうとしたところ、線香花火の玉が終わりを告げてしまった。  彼は再び火をつけて、花火を川のほうへと近づけた。一メートルほど下で、仄かな灯りに照らされたそれが、人の頭頂部だと彼は理解した。髪の長い女がいる――。 分裂しながらほとばしる光の落ちるところ。淡く照らされた頭がわずかに動いた。見覚えのある姿だ。巫女服を着た女の青白い顔。黒く染った瞳が八尋を捉える。 冷たい視線を受けた彼の心の内に湧いたのは、恐怖よりも不快感だった。はじめからいたのか、あとからやってきたのか、どちらにしろ隠れているあたり、亡霊の登場の仕方としては及第点であれど、常識的ではない。髪の長い女幽霊というものは、本来恐怖の対象になり得る存在であるが、八尋にとって見ればありふれた霊でしかない。異様さの欠けらもない一番見慣れた姿に、むしろ安堵さえ感じるほどだ。 彼は仏頂面で手を伸ばして、指先で散り菊となった真っ赤な玉を、彼女の真上から落とした。女はサッと身を引いて避けるような動作をとる。やがて、巫女は川から上がって土手を這い上がり、彼の眼前に広がる暗闇に立った。整った顔立ちで、眠たげな一重の大きな目を彼に差し向ける。「死んでいるとはいえ、火の玉を寄越すのは非常識じゃないか」 抑揚の弱い口調だ。恨み言を唱えるわけでもなく、苦言を呈した彼女に、八尋は口いっぱいに苦虫を詰めこんで噛み潰したような表情と気分をさらけだして睨みつけた。 「どの口が言っているんだ。この前『消えろ』だとか遠まわしにのたまいやがって。それに連日俺に纏わりついていたほうがよっぽど非常識だろ。大体昼のアレはなんだったんだ? 俺を呪おうとして失敗して、あげくに写真まで撮られて、それで観念して出てきたわけだ。訳の分からないことばかりしていると、力士みたいに清め塩をぶちまけるぞ馬鹿女」  矢継ぎ早に放たれた言葉に、彼女は腕を組んで見下すような視線を送った。 「馬鹿はお前だよ。状況をさっぱり理解していないらしい。それと口が臭い」  彼は口を手で覆って、少し考えるそぶりを見せてから声を出した。 「霊の分際で臭いなんて分からないだろ。そう言うお前は目の横にカスがついているぞ。仕返しで言っているんじゃなく事実だ」  彼女は目元を振り払う動作をしてから、彼の真意に気が付いたようすで睨みつけた。「これはホクロだバカタレ」 「引っかかったな。馬鹿はお前だ」  (あざける)るような渾身の馬鹿面を見せて八尋は言った。「それより、『消えろ』ってのはなんなんだ?」  彼女は視線を逸らしてため息をついた。やれやれ、といった雰囲気だ。 「わたしはね、『逃げろ』と言ったんだ」 「逃げろったって……なにから?」 「あそこら辺は良くないものが、うろついているんだ。お前を思って伝えてやったというのにまったく……」  女幽霊は声を震わせて両手で顔を覆った。すすり泣く声がする。言われてみれば、『消えろ』とも『逃げろ』とも捉えられる言葉だったな、と彼は思い返した。写真に写っていた彼女が変におどろおどろしい雰囲気を醸していたせいで、先入観に囚われてしまっていたようだ。 「なるほど……。その腐ったうそうそ大泣きモードをやめて、ここ数日の行動について話せ」  彼女は舌打ちして、パッと顔を上げる。そして、血も涙もない表情で話しはじめた。「言っておくが、わたしは遠巻きに眺めていただけで、憑りついてなどいない。それも、偶然見かけたときだけだ。自意識過剰め」 「なら、誰が……?」 「別の霊に憑りつかれているんだよ。お前の命を虎視眈々と付け狙っている悪霊がいる。今日の昼になにがあったのか知らんが、久々に霊感ある者がこの町に現れたんだ。飢えた魚の群れがいる池に、ひとかけらの餌を放ったら、どうなるのか想像してみたらいい。この土地に馴染むほどに、お前は地獄を見ることになるぞ」  彼女の言葉に鑑みるに、この町にはなんの因果か、悪霊の類が渦巻いているらしい。「ま……いま憑りつかれているその霊をどうにかできないようなら、この町から出て行ったほうが身のためだぞ」 亡霊の忠告を受けて、彼は俯いて考える。他の町に移る選択肢はない。この地に留まるだけの理由がある。そもそも、悪霊など放っておけばいいというのが、自分のスタンスだ。この町の滞在期間はひと月だけ。大切な『なつやすみ』を台無しにされるのは勘弁願いたい。霊のことなど無視して夏を満喫し、三十一日に帰ればいいだけのことだ。 そう考える彼の脳裏に、蒼井神夜の天真爛漫な笑顔がちらついた。出会ったばかりで素性もよく知らない乙女であるが、彼女の霊感が研ぎ澄まされてゆくにつれて、不幸のどん底へと落ちていくのは明白だ。霊との出会いにすら怯えている彼女が悪霊に憑りつかれてしまえば、ひとたまりもなく精神を喰われてしまうに違いない。その原因は一応自分にある。ならば、立つ鳥跡を濁さずでいくほかない。 「殲滅するか……」  彼の呟きに、耳に指を突っこんでいた女は顔をしかめた。「はあ?」 「霊感を持ちはじめた女の子がいる」 「ああ、あの少女か。そういえば、手を出したのか変態め」 「手を出すんじゃなく、手を貸したんだ能無し。……別にそこまで助ける義理はないんだがな。かといって放っておくのも寝覚めが悪い。面倒な幽霊は、あらかた片付けることにする。濃いなつやすみになりそうだ……」 「本気で言っているのか? 霊という存在を舐めているとしか思えん発言だな」 「なら、俺からも言わせてもらう」  八尋は彼女に歩み寄って、眉間にしわを寄せた。「生きている人間を舐めるな」 彼女の半ば降りていた瞼が持ち上がる。視線を合わせる二人の周りで虫たちが騒ぎ出す。現世と冥界、生者と死者を隔てる壁は心が容易く乗り越える。この男は本気だと理解させる目力が八尋にはあった。 「ふん。なれば、やるだけやってみたらいい。もし、お前にへばりついている悪霊をどうにかできたなら、少しは手を貸してやってもいいぞ」  そう言って彼女は身を翻して、土手を歩いていった。その背に八尋は声をかける。「ちょっと待て、結局なにしにここへ来たんだ」 その言葉に振り返る彼女の青白い顔は、わずかながらに赤らんで見えた。「線香花火が遠くで見えて……綺麗だったからつい、眺めていただけだ。それより、百ヵ所以上、蚊に食われているぞ。早く帰れ」 その言葉を最後に彼女は立ち去った。どうやら線香花火が好きらしく、川底にいたのは、小さな火が作る華やかな花を仰ぎ見ていただけだったようだ。彼はすねを掻きながら、「分かってるよ!」と大声で返して帰路についた――。
/54ページ

最初のコメントを投稿しよう!