【八月三日】写真

1/4
53人が本棚に入れています
本棚に追加
/54ページ

【八月三日】写真

八月三日。 ログハウスの外壁にとまっているであろうミンミンゼミが、清涼感のあるBGMを冷えた室内にもたらしている。 「クソ。これもか……」 八尋はソファで前のめりになって、昨日のうちにプリントしていた写真をガラステーブルに並べて精査していた。彼は暗室を使うフィルム式と手軽なデジタル式を使い分けている。様々な薬品類を使うフィルム式を毎日使うのはもったいない。それは本腰を入れて作品作りをするときでいい、というのが彼のスタンスだ。今回は持ち込んだノートパソコンでデジタル現像を行い、備え付けのプリンターを使った。 彼は一枚の写真を手にとって、目を細めた。昨日の昼に撮った田舎の田園風景。ローアングルから、あぜ道が遠くの山々へと伸びるように撮影したものだ。その端っこに亡霊と思しき姿が写りこんでしまっている。ファインダーを覗いたときにはいなかったはずだ。  彼はシャッターを切る前に、余計な人工物や亡霊などの不純物が紛れこんでいないか確認するようにしているが、それでもこうして亡霊が交ってしまうことがある。思念の弱い霊は写真になってはじめて姿がわかるのだ。霊感のない者でも心霊写真が撮れてしまうように。 八尋が主体とする作品は風景写真であり、人が写ることを良しとしない。幽霊を人というには腑に落ちないものの、人の形をしている以上、亡霊は作品にとっては邪魔なのだ。 「畜生……なんなんだ」 いままでも、遠出して写真を撮ってきては、渾身の一枚を亡霊によって紙屑にされることが多々あったため、こんなことは慣れている。 そんな彼が不機嫌に悪態をついたのは、これで五枚目だったからだ。普段なら三十枚に一枚、霊が紛れこんでいる程度だが、今回は十五枚のうち五枚がボツとなった。約三分の一の確率だ。デジタルならまだしも、フィルムなら堪ったものではない。薬品やネガが無駄になるのは、なんとか避けたい。初日の写真にはあまり写っていなかったのに、と彼は背もたれに倒れて天井を仰いだ。 さらに、彼を悩ませたのはその亡霊たちの姿だ。問題の写真を五枚、テーブルに並べて腕を組む。写っている者たちはそれぞれ別々の服装をしていることから、別人であることがわかる。ところが、一様に頭がない。まるで何者かに首を()じ切られたかのような姿だ。八尋が写真越しに触れてみても声は聞こえない。彼は頭だけの霊に遭遇した経験が幾度かあった。しかし、頭を失くした存在を見るのはこれがはじめてだ。  外出するたびに、連日のようにやってくるあの不快な気配になにか関係があるのだろうか、と彼が思考に耽っていたところ、セミの鳴き声に交ってノックの音が聞こえた。  誰だろうかと彼が扉を開けると、蒼井神夜が立っていた。白い無地のティーシャツで黒のハーフカーゴパンツ、袈裟懸けにポーチをぶらさげている。少年のような服装が彼女のスタイルのようだ。髪の毛が額にへばりつき、赤ら顔は汗で艶めいている。風呂上がりのような状態は、灼熱の行軍に耐えた証だ。八尋は攻めてくる熱気に顔をしかめつつ彼女を迎え入れた。 「どうした、また怖いおばけにでも会ったのか?」 八尋はそういいながら冷蔵庫を開けて麦茶のボトルを取りだした。それを受けとって彼女は喉に流しこむ。「朝、おばけに慣れようと思って自転車であちこち適当に走ってたんだ。そしたら稲連(いなづら)へ行く道路の途中に花瓶と花があって、その前に血だらけの女の人がガードレールに座ってたんだ……」  彼は部屋の真ん中にぽつんと置かれていた木製のロッキングチェアに座った。 「稲連? どこだ?」 「科戸駅の次が稲連駅だよ。海方面。あそこらへんは稲連村(いなづらむら)っていう村があるんだよ。村といってもここみたいな感じだけど。ああ、でもちょっと古い感じかな」  古い村と聞いて、深い森に囲われた古民家が脳裏に浮かぶ。良い写真スポットがありそうだと思いながら彼は話を戻した。「稲連ね。それで、その女はどんな姿だったんだ?」 「うーん。茶髪の長い髪で、大学生っぽい女の人だったよ。ティーシャツとジーパンだったんだけど、あちこち破けてて、とにかく血だらけ。足なんか変な方向に曲がってたし」 「へえ。目は?」 「目?」神夜は自分の目を指した。 「そう、目。どんな顔で、どこを見ていた?」 「……怖くてあんま見てないからよく分からないけど、なんか眉毛が太い感じで俯いてたと思う。引き返そうとしたらこっちをちらっと見てきて、慌てて目をそらして逃げたよ」 「なるほど。なら、会いに行ってみるか。その女は話が通じると思うぞ」 「なんで分かるのさ。顔も服も血まみれだよ?!」 「心は目に出る。(まなこ)だけは普通だったんだろう? ――なら、大丈夫だよ。ある程度まともな心がある証拠だ」 「目が普通じゃないのはヤバいの?」 「大体、話が通じない。干からびてたり血走ってたり、あるいは焦点が合っていないってのは関わらないに越したことはないね。ただ、目が無くてぽっかり穴が開いてたり、真っ黒だったりしたら、ヤバい……かも」  話の途中、神夜の顔が固まってゆくのを見て、彼は少しおどけた態度で話を終えた。「まあ、そうそういないし、触らぬ神に祟りなしだ。変なことをしなけりゃ大丈夫だ」 「でも、昨日……武史さんのお母さんは……」  昨日出会った岸本佳澄は彼女にとって紛うことなく悪霊だ。そこら辺にいたし、触ってもいないのに祟られた。そんな口ぶりで彼を睨みつける。 「あの霊はみてくれこそ悪霊のそれだったが、目はしっかりしていた。だから、性根はまともだと判断したんだ。さて、カメラの用意するから待ってな」  事もなげにそういいきった彼に、神夜は意気消沈したようすでため息を落とした。霊にたいする恐怖感というものが、彼には分らないのだろうと彼女は思う。「へーい……」 八尋はカメラの準備をはじめ、その間、彼女は乱雑に置かれている写真に顔を近づけて眺めた。首無しの亡霊に気がついたならば、面倒なことになりそうだと八尋は内心、ヒヤヒヤしていた。説明を求められても答えは持ち合わせていない。ところが、彼女が手に取ったのは関係のない写真だった。どうやらその奇妙な亡霊が見えるほど、まだ霊感は鋭くないのだろう。 神夜が食い入るように見つめたのは、昨日、八尋が道路と空を撮った写真であった。撮影時、彼女は馬鹿にしたような表情を浮かべていたが、いまではそんなようすは微塵も感じられない。 ――黒みの強い道路と白線のコントラストが無機質を極め、そのさきに童話のような色合いの空と雲が待っている。とてもシンプルな構図だったけれど、その写真はあっという間に彼女の心を奪ったんだ。実際に目で見た光景よりも鮮烈で、温もりを物語る風景が時を止めて、一枚の紙に収まっている。八尋が閉じこめた夏は、たしかに彼女の心に届いたのさ―― 「こんなに綺麗に写るんだ」吐息を漏らすように神夜はいった。 「綺麗に撮って、美しく現像したのさ」  八尋は鼻高々だ。写真で人の心を動かすのは写真家冥利につきる。  それから、八尋の準備が終わっても、彼女は次の写真、また次の写真と鑑賞していた。写真への嗜好は一枚あたりにかける観察時間で分かる。パラパラと見るのなら興味なしだ。彼女はよほど空間を切り取る行為に興味を抱いたようすで、被写体の位置や構図についていくつかの質問を彼に問いかけた。 八尋は答えるうちに、バックに仕舞っていたミラーレスカメラを彼女に差しだした。「聞くよりやるほうが分かりやすい。どうだ? 今日一日、亡霊だけってのも面白くない。いくらでも教えてやるから撮ってみれ」  神夜は少し恥ずかしそうに受け取ってぼそぼそと礼をいった。 早速、出かけようとする彼女を八尋は呼び止めた。その目がきらりと光る。 「写真を撮る前に露出の勉強だ。分かってしまえば簡単だからここで軽く教えよう」 「えー。デジカメ使ったことあるよ」 「それはミラーレスといってな、れっきとした一眼レフだ。価格は十二万」 「げ……」 いま手にしているのが非常に高価な物だと知り、彼女は片手持ちから両手持ちに変えた。「こんな物を貸して、お、落としたらどうすんのさ」 「貸す以上、駄目にされる可能性は承知の上だ。でも、なるべく落とさないでくれ」 「さて、F値、ISO感度、シャッタースピード、この三つの要素が合わさって露出と呼ぶ。それぞれの関係について説明するからよく聞いてくれ――」 神夜は要領が良いほうではなく、勉強が苦手だ。写真家が繰り出す呪文の数々に翻弄されながら、一時間ほど続いた彼のレクチャーに耐えた。撮る前からすでに脳が疲れた、と彼女は愚痴を零した。
/54ページ

最初のコメントを投稿しよう!