【八月四日】影

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【八月四日】影

 八月四日。 商店街の中央付近にコサカスーパーというこじんまりとした食料雑貨品店がある。ビニール製の赤い看板にポップな字体でコサカと書かれたこの店は、地域に深く根を下ろし、住民にとって欠かすことができない存在として科戸町に君臨している。ここがなければ、トイレットペーパー一つ買うのに電車に乗る羽目になる。 開店したての客が少ない店内で、桜井八尋は手持ち花火のコーナーに立っていた。彼の視線のさきにあるのは線香花火だ。夏といえば花火。儚い光に酔いしれるのも乙だろう。神夜と一緒にやってもいいなとも思ったが、彼女の門限を考えると、暗くなってからはできない。だいの大人が孤独に線香花火というのは、いささか虚しいものがあるが、かといってやらない理由はない。なにせなつやすみなのだ。彼はかごのなかに線香花火の束を投げ入れた。  昼――八尋は気合を入れようと頭に白いタオルを巻いて、スナップショットを撮るために町を散策していた。立ち上がる熱気に負けないよう、スポーツドリンクの準備も怠らない。 『今日の空には沢山のでっぷりとした大雲(たいうん)がまどろむように漂って、ひしめきあう隙間から濃い蒼が窮屈そうにしていた。天と地がひっくり返ったなら、まるで氷河のクレバスのようだね。そんなもんだから太陽はときおり顔を覗かせるほかなくてさ、燦々たる光を真っ白な雲が阻むたびに、科戸町は薄暗い日影に塗りつぶされたんだ。別の言い方をすれば、影が消えるともいえるだろうね。物凄く大きな日傘を差しているようなものだから、少しだけ暑さは手加減してくれたんじゃないかな』 古い様式の家が点在する素朴な田舎道を歩きながら彼は、ひたすらに撮る、撮る、撮る。なにかを記録するわけでも、作品を撮るためでもなく、亡霊探しのためだ。 首無し霊は、ひとりふたり程度の存在ではないと彼は推測していた。構図を考えて態々撮った写真に、ピンポイントに写ったとは考えにくいからだ。そこらじゅうにいると考えたほうが合点がいく。 それは、いままで見聞きしたことのない、あまりにも奇妙な事象であった。除霊師が首だけを祓うなどという芸当を行使したとは思えないし、首を斬り落とされた人間の亡霊であるならば、頭のほうが霊として残るべきだ。それもひとりではなく大勢ともなれば、この科戸町でなにか異常なことが起きているとしか考えられない。八尋にとっては好奇心をくすぐられる出来事だ。なんとしても知りたい。解き明かしたい。ある種の、なつやすみの自由研究に挑戦するような気持ちで歩きまわった。いくつものカーブミラーを通り過ぎて、鏡に映る歪曲した道に、彼の姿が現れては遠のいていく。 ふらふらと気の向くままに、科戸町の奥地へと歩いていた彼は、どれもが広い土地を持つ古民家の集落にぶつかった。築五十年はゆうに超える家の前にある通りは、きっと百年二百年はくだらない歴史があるのだろう。舗装されていない道路を踏みこむたびに、粒子の細かい乾いた土が、足音に驚いて舞い上がっていた。両脇の土手から津波のように伸びた雑草が、道幅を狭くしている。 八尋がシャッターを切っていると、一時光を落としていた昼の使者がまたもや雲の上に乗ってしまった。呼応するかのように、それまで濃い影で地面に描かれていた電信柱の輪郭が、溶けてゆくように消え去った。彼自身の影もどこかに隠れてしまい、穏やかな昼下がりの雰囲気があたりにたゆたう。  彼はこの状況で撮る写真が好きだ。太陽の強すぎる光は、被写体を白で飛ばしてしまうことがよくある。雲が遮っているいまならば、光がマイルドになり、被写体本来の美しい色合いと輪郭を捕らえることができる。もちろんそれは好みの問題ではあるが、少なくとも八尋はこの瞬間を愛していた。首無し亡霊の撮影は一旦置いといて、彼は古民家を背景に、庭先に咲いていた数本の向日葵(ひまわり)を撮る。 その瞬間、それまで大人しく燻っていた厭な気配が、炸裂するかのように彼に襲いかかった。蝉時雨を掻き消すほどの強烈な耳鳴りと激しい悪寒が背後からやってくる――。 彼は思わず振り返って、数メートルさきの地面に視線を向けた。 影のない世界で――ひとつだけ、あるはずのない影が落ちている。いるはずの霊の姿は、彼をもってしても見えない。しかし、影だけはくっきりと人の形をとっていた。 佇んでいるなにかに、西日があたっているかの如く、なにもないところから人の影を生みだしている。昼間に見る影としてはあまりにも時間をはき違えているのは、霊のなせる業だろう。 ついに間接的ではあれど、それは姿を現した。影はその形を変えることなく、そこにいる。 「お前、渓流にいた巫女だろう? ずっと、俺が外に出るたびについてきて……一体なんの用だ。ストーカーされる筋合いはないぞ」  彼の言葉に相手はなんら反応を見せない。ただ心臓をつまむような威圧感だけを投げつけてくる。耳鳴りの合間に、パタ――パタ――と音がした。つい視線を落とした彼は、それが血液だと思った。十円玉サイズの赤黒い染みがひとつ、ふたつと土に広がる。  いままで影だと思っていたそれが、血液によって形作られたものだと知ったとき、真夏の炎天下に堂々と降って湧いた存在に、彼はその根底に潜む悪意を垣間見た。これは久々に面倒なのが現れたなと彼は思う。鳥肌が立つほどの気味の悪さと、害をもたらそうとする意志を隠そうともしない。  しかし、もし初日に駅員から受けた『この町はあなたには危険だ』という忠告が、この亡霊を指しているのであれば、肩透かしもいいところだ。出会った悪霊は数知れず、くぐった修羅場も少なくない。急に姿を現したことで面食らったものの、これ以上怯えることはない。 八尋は深呼吸して、事もなげにカメラを向けた。ファインダーを覗きもせずにシャッターを何度かきる。ややあって、雲の合間から光が差し、異形の影は行方をくらました。あるのは木製の街灯が落とす現世の影だけだ。 彼は首無し亡霊のほかにもうひとつの収穫を得た。SDカードから解き放たれ、プリントすればその正体を見せてくれるだろう。 八尋は速足に道を進んで、探索に戻った――。
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