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【八月一日】おじいさんのなつやすみ
科戸町の外れにあるログハウスに着くころ、すでに八尋は疲れ果てていた。ここまでの道のりで自販機がどこにもなく、熱中症とのせめぎあいを強制させられているせいだ。セミの声を少しでも心地良いと思ったのは間違いだったようだ。今は煩わしくて不快でしかない。
おまけに不穏な気配が辺りに漂っている。経験的に近くに面倒な亡霊がいることを彼は悟っていた。願わくば鉢合わせないようにと祈りながら鍵を差し込む――。
この家は彼の友人が所有している別荘で、八尋は金を握らせて、半ば無理矢理借り受けたものだった。扉を開けると、そこはサウナそのもの。霊の気配はないけれど、このままでは自分が亡霊になってしまう。早々に荷物を投げ出して彼は、カメラバッグと財布を手にオアシスを求める旅に出た。
ペンキで塗ったような濃い青と眩しいくらいの白雲の下、田んぼの四方に生い茂る雑草が、鋭い切っ先を激しく振っていた。田園を割く荒涼としたあぜ道は、サンダル越しに熱を伝える。
――この風景だけなら横浜近郊でも見ることができるだろうね。真にここが深い田舎なのだと思わせるのは、遠くの山々が科戸町を、まるで箱庭のように取り囲んでいるからさ。木製の電信柱がどこまでも続いていて、ちらほらと姿を現す軽トラックも、田舎感満載だね――。
しばらくして、自販機は住宅街にぽつんと置かれていた。この町に一台しかないんじゃないかと思えるほど、レアな存在だ。彼は贅沢に水を浴びて喉を潤してから、期待と不安を胸に炎天下を歩く。
川が運んできた爽やかな風のなかに、依然としてぬったりとした厭な空気が纏わりついてくる。光の暴力が支配する世界で、霊なるものが虎視眈々と付け狙うのなら、それはよほどの悪霊に違いない。八尋はなんども辺りを窺っては、一向に姿をみせない奇妙な存在に苛まれた。
科戸町は田舎の良いところを凝縮したような町だ。町を横断する川、大地一面を覆う草原、寂れた商店街や神社など、写真家である友人が、別荘を建てるのも納得の場所だった。彼の話では、渓流や湖などもあるらしい。
皮膚を撫で続ける気配に慣れたころ、八尋は好奇心から林間へと足を運び、こじんまりとした寺をみつけた。木と竹を組み合わせた垣根から敷地がみえる。林を背に風化した墓石が山のように積まれていた。名のない墓石は無縁墓地の証。孤独に死んだ者たちの眠る場所に一人だけ、白装束を着た古典的な亡霊が宙に浮いて、項垂れている。還暦を過ぎているであろうおじいさんだ。
その目と鼻の先で華奢な体格の子が、しゃがんで合掌をしている。亡霊はその子をみつめているようだ。ひとたび風が通りがかれば、笹の葉が触れあってサーーーーッと歌い踊る。その舞台の下では、ひっそりとおじいさんの亡霊と中高生くらいの子が夏に取り残されていた。
その光景を八尋は不思議に思った。無縁仏に冥福の祈りを捧げる者は住職くらいしかいないはず。だからこその無縁墓地だろう、と怪訝な顔を浮かべてる。
あの子は一体、誰に対して合掌しているのだろう。さては、あの亡霊と何か関係があるのだろうか。素性に興味が湧いた彼はポラロイドカメラを取り出した。カシャッっと小気味よい音。二人を写真に収めて敷地に入る。
八尋の存在に気付いて立ち上がったその子は、黒髪のミディアムショートで、中性的な印象を与える顔の乙女だった。凛とした顔立ちはまるで武家の男の子のよう。オレンジ色のティーシャツとベージュのショートカーゴパンツから、光を帯びていると錯覚させるような白い素肌をさらけ出している。
〈こんにちは〉と挨拶する彼に、彼女は〈なんですか〉と、壁を隔てるような物言いで返した。汗まみれの男がカメラ片手に笑顔で近づいてくれば、警戒するも当然だろう。子供からしたら不審者のようにみえてもおかしくない。
「いやあ……ここは無縁墓地だ。なのに、君は手を合わせていた。縁のある者がいるのかと気になったんだ」
「いや、別に……」
彼女は目を背けていった。理由はあれど、話したくはないみたいだ。八尋は写真を差し出して、彼女はなんのことかと受け取った。
「もしかして、この人が縁者なのかな?」
その言葉は彼女には届いていないようすだった。写真をまじまじとみつめ、愕然としている。やがて、困惑は恐怖に変わる。小さく悲鳴を上げて、乙女は写真を放り出して逃げた。ちょっとした悪戯心が見事に成功し、彼は含み笑いしながら写真を拾った。写っているのは彼女の背中とカメラ目線の亡霊。
桜井八尋は風景写真家であると同時に、心霊写真家でもあった。つまり【写ってしまった】のではなく【写した】。霊をみる者は数あれど、撮影する者はそういない。他に類をみない八尋の特技だ。
彼は写真の亡霊から実物に目を移した。
「みえるんか?」不思議そうにおじいさんは寂声を発した。
「ええ。みえますよ」八尋は得意げに返して、写真をみせた。
おじいさんは眉間に皺を寄せて、感嘆の声をもらす。手にした写真が二つに分かれ、手元に残るとより一層の感激をみせた。
「桜井です。どうぞよろしく」
「ああ、わたしゃあ盛岡といいます」
亡霊であるにもかかわらず、息を吹き返したように生き生きとした表情で盛岡は応えた。いつ亡くなったのかは分からない。しかし、孤独を味わいながら寺の隅で佇んでいたことは分かる。生前も孤独、死後も孤独ではあまりに不憫な話だ。人の温かみを欲するあまり、悪霊と成り果てるケースも少なくない。幸い、彼は話が通じそうだったので八尋は、「実は今日、この町へ来たばかりで、まだ何もわかっていません。よろしければ、町の案内をお願いできませんか」と頼み込んだ。すると彼は快く了承してくれた。
そのとき〈おい〉と声がした。目をやると、寺に併設された家の玄関から住職らしき男が顔を覗かせていた。「いったい、あんた誰と話をしているんだ?」
訝しそうな表情の男に彼は取り繕うように〈あ、いえ。すいません〉といってそそくさと敷地から出た。傍からみればトチ狂った人間だ。
「さっきの娘は、盛岡さんの血縁者……ではなさそうですね」
「そりゃそうだ。縁もゆかりもないよ。あの子はたまに、本当にたまあに、ひょっこりと顔を出してはああやって黙祷しているんだ。あっこには私しかいないんだけどねえ。きっと優しい子なんじゃないだろうかね」
結局、彼の疑問に対する答えは得られなかった。
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