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それは我里久が入社一年目の頃、お客をとあるアパートへ内覧案内したときの記憶。
相手は品の良い年配の女性客。挨拶もそこそこに交わしたところで、彼女が不意に尋ねてきた。
「あなた、よくタバコ吸うの?」
投げられた質問に、我里久は驚きの色を滲ませる。
――なんでそれを知ってるんだ?
自身が喫煙者であることは女性客には一言も話していない、ましてや初対面だ。
その場は女性客に会話を合わせ、案内をすませて会社へと踵を返した。
が、何かひっかかる我里久は会社へと歩を進める道中も、疑問と女性客の表情がずっと頭にこびりついて離れなかった。
口元は優しげに笑っていた女性客。しかし、目は笑ってなかった、まるで何かを訴えるかのように。
「まさか……」
疑問と入れ替わるように、不意に一つの可能性が浮かび上がった。
己の口からタバコが匂っていた――それしか考えられなかった。
女性客の笑わない目は「お前くせぇんだよ、人と会う時ぐらい気をつけろよ」という無言の訴えだったのだと気づく。
途端、血の気がひくのを全身で感じる我里久。
この日を境に、人と会う前には口臭に気を付けるようにした。
その後結婚し、子供ができたのを機にタバコを止め、現在に至る。
こうして自身の苦い経験を活かして部下を育てるという、そんな熱い思いから我里久は『魔王』となった。
だが、理想どおりにいかないのが現実。
――くそっ、私は一体どうすれば。
鏡の前で腕組みをしながら難しい顔になる我里久。
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