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退屈な会議は一時休憩となり、私はたまらず外に抜け出した。ビルの裏口を抜け土手を上る。土手の上で待っていたのは、満開の桜だった。
何通りも分れた枝先の桜は蕾を一つも残さず咲き狂っていた。あまりの花の多さに垂れたような桜の枝は、腰先に触れるほど低く伸びていた。
舗装されていない砂利道に点々と桜の花びらが散っている。まるで何かの足跡のように土手沿いをずっと伸びている。
落ちた花びらに近寄って見ても、花弁は傷ひとつなく透き通っていた。夢中で花びらの一つ一つを眺めていたが、会議が再開する時間になるので渋々引き返す。それでも会議の間中、私の頭の中を占めるのは桜のことだった。
会議が終わるとまた一目散に桜の木のもとへ向かった。日の傾きは変わっても桜の白い明るさは変わらなかった。
枝先の桜花を眺め、地に落ちてもなお透明な花びらたちを眺めているとさらに美しいものを見つけた。桜の花が形を保ったまま落ちていたのである。五枚の花弁は一枚も欠けることなく完全な儚い美しさを保っていた。
鼻先に近づけて嗅いで見ると一瞬だけ甘い香りを感じたが幻のように消えた。
私はしばらくその花の尻をつまみ、くるくると回したり様々な角度から眺めて楽しんだ。私は春を手に入れたような気がした。人の手の中に落ちても曇ることなく輝く春だった。私は桜に満足し家路についた。しかしせっかく見つけた桜の花を手放すことは惜しくて、けっきょく花を持ったまま駅の改札も通り抜けてしまった。
人混みが近づくとさすがに恥ずかしくなってきたがそれでも花を捨てることができず、掌で柔らかく包み込み隠す。
たまたま待つことなく電車に乗ることができ、空いた席に納まった。
掌を開くと花びらの一つが少しだけ曲がってしまっていた。私はこれ以上、この花の美しさを損なうことが怖く、持ち歩く気にはなれなくなった。
耳には電車の音がはっきりと聞えるようになり、体が小刻みに揺らされるのも分るようになってきた。少しの単調さと少しの疲労が絡みつく日常が近づいて来る。あと少しだけ非現実に浸るため、私はとっさにこの春を保つ方法を思いついた。
私は桜の花をそっと窓枠に置いた。落ちることなく、車窓の風景を背に桜の花はこっちを見ている。この無機質な日常の空間に小さな春が息づいた。私が駅を降りた後もこの花は春を運び続ける。小さな春は終わることなく進み続ける。
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