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この世界が終わっても
文香は目を覚ます。ここでも眠るという感覚はある。天井を見ると、1と白字で大きく出ている。
鷺坂は文香の隣で寝息を立てている。今日は仕事が休みらしい。
文香は寝ている鷺坂の鼻をつまもうとする。その腕を、するりと掴まれた。
「あっ」
「何する気だよ」
鷺坂は呆れたような顔で起き上がる。文香は思わず顔を反らした。
「文香」
「あ、呼び捨て」
「この世界じゃ、夫婦だから」
文香はため息をつく。
「偽物の世界でしょ」
鷺坂は文香の腕を離すと、代わりに手を握り指先を絡ませた。
「ちょっと」
抗議の声にも構わず、鷺坂は握る力を強める。
「俺にとっては本物だから」
鷺坂はまっすぐ文香を見つめた。
やがて文香は根負けしたらしく、こう言った。
「そうだよね。今日が最後だし、一緒に過ごそうか」
文香が朝食の準備して、二人で食べた。鷺坂は最後だと言うのに掃除をし始め、文香も食器を洗い、終わるとソファに座りネット配信の映画を見始めた。掃除を終えた鷺坂もいつの間にか隣に座っていた。
特に会話をするわけでもないが、心地良い。
(こんな未来が、あったのかな)
「ねえ、あなたは鷺坂くんの記憶を持ってるのよね」
「うん。今更どうしたの?」
「現実の鷺坂くんは、私のこと、好きだった時があったかな」
鷺坂は少し間をおいて答えた。
「あったとは、思う」
「そ、そうなんだ。現実に私とこうなる可能性は」
鷺坂は困った顔をする。
「鷺坂大知は今現在彼女がいる。それはもう変えられない。彼女と別れると言うことは、何回シミュレーションしたところでないと思う」
鷺坂の言葉に文香は食ってかかる。
「何回シミュレーションしてもないって、それはおかしいわ。だって、100回目のシミュレーションで私のAIとあなたは上手くいったのよ」
鷺坂は優しく微笑んだ。
「そうだね。この世界では俺は彼女と別れて文香と結婚している。こんなこと有り得ないんだ」
「何言ってるの?」
「黙って聞いて。俺はシミュレーションしている回数分の記憶を持っている。それは本来有り得ないんだ。君たちの頭の中には特殊な機械が埋め込まれていて、それが毎日AIと自動同期している。その時にAIの記憶も必要に応じて消去される、一回のシミュレーション毎の記憶は終わる度に消去されているべきなんだ」
「よく、わからない」
「100回分君のAIと出会ってる。100回分君を見てきた。前に俺のこと意思があるようだって言ったろ? その通りさ」
文香は訝しげに目を細めた。
「まさか」
「俺は運営にとってはエラーやウイルスみたいなものだ。もうじき完全に消去されるだろう」
鷺坂はそう言って、悲しげに微笑んだ。
「もしかして、今、私に話したから?」
鷺坂は答えない。
「どうして、話したの」
文香の唇は震えた。目の前の鷺坂を抱きしめたかったが、霞んでよく見えなくなっていた。
「君が現実に帰る前に、どうしても伝えたかった。鷺坂大知のAIとしてでなく、俺は俺として、君が好きだ。どうか、その事を忘れないで。
この世界が終わっても、俺は君を愛している
『異常なエラーが発生しました。強制ログアウトします』
文香は椅子に座ったまま目を覚ました。頭の機械を取ると、目の前のパソコンは強制終了していた。
文香が休日出勤をすると、鷺坂が職場の掃除をしていた。
「何してんの」
「最後に掃除っす。平井さんは?」
「仕事が、残ってて」
「手伝います?」
「良いよ、悪いし」
「そっすか」
文香は自分のパソコンを立ち上げ始めた。鷺坂はせっせと机を拭いている。
酔っていたが、きちんと設定で『シミュレーションを相手に通知しない』を選択したのだろう。鷺坂の様子を見ていると、AIを使ってシミュレーションしたことは本人には知れていないようだ。
「飲み会、悪かったね」
文香がポツリと言うと、鷺坂はかぶりを振った。
「全然大丈夫ですよ」
文香はチラリと、隣の鷺坂の机を見る。何も置かれていない。彼は来週から新しい勤務地だ。
「鷺坂くん。結婚するんだって?」
鷺坂は顔を上げる。憎らしいほどの笑顔だ。
「そっす。あ、そのことで話があって」
「なに?」
「結婚式、来てもらえないですか?」
「ーー何で?」
「何でって、呼びたいからですよ。嫌ですか?」
「そうじゃなくて」
(友達でもない、ただの同僚、結婚式さえ呼んでもらえないと思ってた)
「ーー行くよ」
鷺坂はにかっと大きな口から歯を見せて笑うと、「あとでラインで住所送ってくださいね」と言った。
「鷺坂くん」
「何スか?」
「結婚おめでとう」
「ありがとうございます!」
鷺坂は勢いよく礼を言う。文香は微笑んだ。
思い出す。あの世界の、彼のことを。
この世界が終わっても、俺は君を愛している。
(私も、あの時、きっとーー)
文香は静かに目を閉じた。
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