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束の間の日常
文香はアルファ内で、AI鷺坂と過ごすことにした。同棲生活というものに興味もあった。どうせ、シミュレーションの世界だ。
ここでは、触られる感覚も、味覚も、嗅覚もある。暑さや寒さも感じる。鷺坂は現実と同じ仕事をしており、文香は近所のスーパーでパートをしていた。彼女たちの勤める会社は、結婚したり出産したりのタイミングで、辞めてしまう女性が多い。残るのは役職付きの女性だ。そのあたりの設定もリアルである。
仕事が休みの日、二人で買い物に出た。行き交う人々は、本物の人間のようである。鷺坂によれば、外にいる他の人達もAIだと言う。
「こんなに人がいるのね。私みたいに意識を繋いでいる人もいるのかしら」
「さぁ。あまりいないんじゃないかな」
「どうして?」
「シミュレーション回数は基本でも100回。そんなにシミュレーションしたい?」
「うーん」
「ね? 意識を繋ぐ機能は最近追加されたけど、利用者が増えないとその内廃止されるかも」
説明する鷺坂を、文香はじ、と見つめた。
「なに?」
「詳しいんだね。AIは皆そうなの?」
鷺坂は首を傾げた。
「いや、どうでしょう。俺は色々勉強したから」
「へえ」
文香は笑う。
「勉強なんて、AIなのに意思があるみたいね」
鷺坂は目を丸め、そして文香から視線をそらした。
「AIが意思を持つことは禁止されてる。人間の記憶と、知性を持ったAIは、人間みたいに見えるかもしれない。でも、前に君が言った通り、偽物だよ」
「ふうん」
(前に偽物って言った時は気に入らない様子だったのに。変なの)
それ以上、文香は聞かなかった。
近所のスーパーにやってきた。鷺坂は当然のようにショッピングカートを押してくれる。
「夕飯は何にする?」
「良かったら、俺が作りますよ」
文香は鷺坂の顔を見た。
「え、良いの」
「簡単なやつだけど」
「へーえ」
文香はしげしげと頷く。その様子に鷺坂は苦笑する。
「ケチャップと、パスタの麺はありましたよね?」
「うん」
鷺坂はえのき茸をカゴに入れた。
「料理なんてするんだ?」
「現実でも一人暮らしでしょう。そりゃあしますよ」
鷺坂は商品の場所を把握しているらしい。迷いなくカートを押していく。
「このスーパー、よく来るの?」
文香は不思議に思う。鷺坂の現実の住所は、この近くではない。
「そうすね。文香さんと暮らすうちに覚えました」
鷺坂は照れているのか、ポリポリとほおをかきながら答える。
(そっか。そういう設定なのね)
文香はそう解釈した。
帰り道。鷺坂は荷物の入ったエコバッグを持ってくれている。
「天気良いなぁ。少し歩きますか?」
「え? 良いよ、荷物もあるし」
「生物買ってないし、大丈夫っす。大体ここ、アルファの中ですよ」
「ふーん、その荷物の重さも感じないのかしら?」
「重いっすよ。それもそういう設定と言えば、それまでですけどね」
「じゃあ、帰ろうよ。重いんでしょ?」
鷺坂はうーん、と声を上げた。
「でも帰ったら外出たくなくなっちゃうし。もう少し文香さんと歩きたいな」
文香は目を丸めて鷺坂を見て、そして反らした。鷺坂は涼しい顔をしていた。
(そうか、忘れていた。ここでの鷺坂くんと私は夫婦なんだ。彼は、私に好意を持っている)
我ながら妙な表現だと、文香は思う。夫婦なので、好意を持っている。
(普通、逆だな)
「少し遠回りして帰りましょう」
鷺坂はそう言うと、荷物を文香がいる側と逆の手で持った。あれ、と文香が見ていると、鷺坂は許可なく彼女の手を握った。
「ほら、こっちこっち」
鷺坂は笑顔で歩き出す。いつの間にか、文香もつられて微笑んでいた。
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