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日常の終わり
AI鷺坂との生活は、案外に快適だった。
彼は冗談を言って、よく文香を笑わせた。その度に文香は楽しそうに「嘘ばっかり」と言う。
文香の作る料理は美味しいと、彼はその大きな口で食べた。料理が好きでも得意でもない文香だが、作るのが苦でなくなった。
彼は掃除や洗濯も積極的にやってくれた。整理整頓が得意で、職場でも書類の管理をしていたのは鷺坂だったと文香は思い出す。
休日には必ず二人で出かけ、一週間分の食料を買い込み、帰ってきたら家で映画を見た。
幸せだった。
(まあ、シミュレーションの世界、なんですけどね)
この生活が、幸せとか楽しいだとか、ずっと続けば良いとか、そう感じる度に虚しくなった。
現実では、彼と上手く行くことは有り得ないから。
ある朝。
「ねぇ、鷺坂くん。あの数字なに?」
数日前から、寝室の天井に大きな白字の数字が現れた。最初は7だったのが、一日ごとに減り、今では2になっている。
「おそらく、アラームです」
腑に落ちない様子の文香に、鷺坂は説明する。
「ここは現実世界より、ずっと体感時間が早く設定されています。数日間過ごしても、現実世界では数時間程度です。しかし、現実世界の文香さんは寝ているような状態ですから、ログアウトする時間を設定してあったんじゃないすかね」
「ログアウトしたら、どうなるの?」
「記録の再生くらいは出来ると思いますが、この同じ世界で本体の文香さんが過ごせることはないでしょう」
「そう」
二人が一緒にいられるのは、あと2日。
文香はソファに座る鷺坂の隣に腰掛けた。
「私と鷺坂くんて、この世界では夫婦なんだよね」
「そうですね」
「んーとじゃぁ。はい」
文香は、鷺坂に顔を向け、目を閉じた。
「はい? 何すか、それ」
「や、わかるっしょ」
目を開くと、文香は唇を尖らせた。
「その、もう少しで、終わっちゃうから」
ポツリ、文香が言うと、鷺坂は優しく肩を引き寄せた。途端に、文香の体は固くなる。
「そう、だね。文香、が良いなら、俺はーー」
文香が鷺坂の方へ顔を向ける。鷺坂の顔が段々と近付き、彼の手が文香の顎にそえられて。
「ーー待って」
文香は思わず手で押し返していた。鷺坂の手が、離れていく。
「どうして?」
小さく、囁くように鷺坂は尋ねた。
「ごめん、だって」
文香の胸は痛いくらいだった。
「だって、ね。現実では、鷺坂くんとこうなることなんて、有り得ないから」
鷺坂は悲しそうな顔をした。
「文香、でもここでは」
文香は鷺坂の言葉を遮る。
「あなたが鷺坂くんの記憶を持っているなら知っているはず。現実の鷺坂くんにはーー」
絞り出すように、文香は言った。
「か、のじょが、いるの」
結婚前提にした、とはわざわざ付け加えなかった。文香はいつの間にか、肩を震わせながら泣いていた。
惨めに思えた。
「だから、やっぱり、あなたは、偽物で、ここは偽物の世界。ごめんね、もうすぐ終わりなのに。こんなこと、言っちゃって」
文香は顔を上げ、AI鷺坂を見た。
「それでも、この世界の俺はーー」
小さく呟き、少し寂しそうに笑っていた。
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