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平井文香と鷺坂大知
鷺坂のいる支店に文香が異動してきたのは、三年前だった。彼は文香より二つ下の24歳。ラガーマンのような体型だが、学生時代にやっていたのは陸上だと言う。
「自分、体力には自信あるっす。荷物とか運ぶ時言ってください」
文香にとっては後輩ではあるが、その支店では彼の方が長い。仕事を教えてもらう形で、彼とペアに仕事をすることが多かった。気の利く人間で、支店に異動したばかりで慣れない文香をサポートしてくれた。たまにボソリと言う冗談で、彼女を笑わせた。
同じ職場になり一年が過ぎた頃。
「俺、彼女が出来たっす」
職場の飲み会だった。ざわめく中で小声で話したのに、文香には鷺坂の声がはっきりと聞こえた。
「まだ誰にも言ってないんですよ」
そう言って、鷺坂はニヤリと笑った。酔っているようだ。
「良かったじゃん」
「俺に先越されましたね」
文香は思わず、飲んでいたハイボールのグラスを乱暴に置いた。
「先を越されたからって、怒んないでくださいよ」
鷺坂はデレデレと笑う。文香は行き場のない思いに、ハイボールを一気に口へ流し込んだ。ウイスキーの匂いが鼻の中をかけぬける。
それより前。二人で飲みに行ったことがあった。文香は大学で彼氏と別れてから恋人が出来ないと愚痴を言う。鷺坂も中学生以来、彼女が出来たことがないらしい。
「中学生とか、人数に入んないって」
「んなこと言わないでくださいよ」
「ま、私も人のこと言えないけど。もうアラサーだし、彼氏欲しい、いや、夫が欲しい」
「夫って」
ふいに、鷺坂が真面目な顔をした。
「ーー俺とか、どうですか?」
声が小さく、文香は聞き取れなかった。
「なに」
「いや、あの、だからーー何でもないっす」
本当は、聞こえていた。
「鷺坂くんも、早く彼女見つかるといいね」
文香の言葉に、鷺坂は曖昧に笑った。
相変わらず仕事ではペアを組んでいたが、文香と鷺坂は仕事の関係以外の会話をあまりしなくなった。
鷺坂が彼女と婚約したらしい。
そのことを本人からではなく噂で聞くほど、文香は鷺坂と距離が出来ていた。そんな中、鷺坂は異動になった。人気エリアの支店で、誰が見ても栄転だった。
鷺坂の送別会で。
「鷺坂ー、美人の彼女はどうするんだぁ?」
「や、連れてくっす」
「俺についてこい、ってかぁ」
「そっすね」
かっこいー、野次が飛ぶ。文香はそれを冷めた目で見ながら、ゴクゴクとハイボールを飲んでいた。
一次会の後、文香は送別会の主役である鷺坂に支えられながら立っていた。
「ほら、平井さんタクシー来ましたよ」
「ふざけんなよ、二次会いくぞぉ」
鷺坂はタクシーを呼び、文香を押し込んだ。文香の家の近くのコンビニまで、と運転手に話し、一緒に乗り込んだ。
「え? 鷺坂くん?」
文香は一瞬で酔いが覚めた。鷺坂が一緒のタクシーに乗っている。
「あの、主役が行ってどーすんの」
「平井さん送ったら二次会合流するって言ってあるんで大丈夫です」
涼しい顔で鷺坂は言う。
「そう」
文香は黙った。酔いはいくらか覚めたが、それでも酔っている。思考回路は鈍い。
(どういう状況だろう。鷺坂くんが私を送ってくれている)
正直に言えば、嬉しかった。
鷺坂に彼女がいるのは分かっていても、嬉しかった。
「あの、平井さん」
(なに)
「これだけは言っておこうと思って」
(何だろう)
文香はどこかで期待した。
鷺坂の方を向くと、彼は頭を下げた。
「今まで、お世話になりました」
「あ」
(そうか、今日で、最後)
文香はぐ、と唇を結んだ。
そうしないと、泣いてしまいそうだったのだ。
「こちらこそ、お世話になりました」
文香の言葉に、鷺坂は顔を上げて笑った。
鷺坂は文香をアパートの前まで送ると、二次会へと戻って行った。
真っ暗なアパートの部屋に戻ると、文香は泣いた。
(友達でもなんでもない。ただの、同僚。職場が変われば、私はきっと、結婚式にも呼ばれないんだ。その程度の仲だ)
酔いのせいもあったろう。情けないほど声を出して泣いた。
文香はパソコンに入っていたアルファで、鷺坂と自分の相性をシミュレーションした。彼女がいない時期に、鷺坂が登録したことは知っていた。
いくらやっても上手くいかない。鷺坂のAIには『彼女がいる』という記憶があるのだから当然である。結婚したいくらい、好きな彼女が。
無料上限の100回目。課金するしかないかと迷い始めた頃に、やっと鷺坂のAIと結ばれた。
確率は100分の1。
気付くと、文香はアルファの世界にいた。AI鷺坂と同じベッドの中で。
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