はるのおと 其の四

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 津曲のとなりにかの子がいる。夢の続きかと思う。もう一度まどろもうと目を閉じると、かの子の姿が消える。津曲は慌てて目を開け、少しずつうつつに戻る。うつつでは、かの子が少し怒ったように自分を待っている。 「……貴女の好きな、あれに勝負を挑んでこのザマです。」 津曲は、いつも整然としている髪の、寝乱れたのを掻き上げる。 「貴女が、一緒にいるのがあんまり当たり前になっていた自分に、愕然となりました。……貴女は、自分の狡さを責めてまで、一緒にいてくれようとしたのに。」 「私……。」 かの子は、初めて見る津曲の不精髭に触れ、その手を首元まで滑らす。津曲は、その冷いやりしたものを、首元に挟み込む。 「あれこれ考えていたけど――真っ直ぐにここに来てしまった。」 「……寝乱れてともにありなむ君となり」 「……それも?」 「駄作だな。」  ふたりが顔を見合わせて笑ったタイミングを見計らって、玄道は茶碗蒸しを二つ、差し入れる。  恐らく津曲は、そうっととろとろの中から、銀杏を二つ掬いだすだろう。その前に玄道は、ぼんのくぼに手をやって、津曲の「駄作」を復唱しながら階段を降りる。帳簿を開くのは、なんだか久しぶりの気がする。  かの子は今頃、津曲の匙から金色の玉を転がしてもらい、金色を受けとめた唇の右端をあげ微笑んでいるだろう。これっぽっちの、二人の交歓。立ち止まっても、躊躇っても、そばにいる二人の。 「忘れられない人となり」 忘却は、望んでできるものではない、と玄道は知っている。二人の笑い声を聞こうと、階段下に腰かけているお母さんは、忘れる必要のあるものなど存在しないと思っている。  仙台市青葉区柳町通り、大日如来堂前、寿司処「はる道」。ようやく店の中に仕舞われた暖簾に、通り雨が降りかかっていたそんな日。
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