あのころ

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あのころ

 緩やかな軌道を描いて白く立ち上る蒸気。  流行りのアロマディフューザーからひろがる香りは、王道のカモミール。  カーテンから容赦なく差し込む朝の光。  始まることを望んでいない重い心をひきずりながら安息の沼から這い上がる。  テーブルの上にある箱に手を伸ばし、親指の爪を隙間に挟む。  コイントスに似た動きで蓋をあけると箱の中身はあと数本。1本取り出し唇へと運ぶ。  息を吸い込みながら先端を火で焼いていく。  目を瞑っていてもできる数少ない動作のうちのひとつだろう。  眠っている時間が1日の中での最長禁煙時間でもあるわけで、最高においしいひとくちめだ。  寝起きの至福の煙をゆっくりと肺へと送りながら、昨日と変わらない朝の光景を見渡す。 「また今日が始まった。」  同じような1日を始めなければいけない苦痛。  そこには清々しいなどという言葉からは程遠い、絶望と脱力という感情にメンソールの匂いをつけた重い空気が澱む。  燃えて朽ちる灰が、刻々と時は過ぎていることを告げている。  たばこをもみ消して、トイレに行き、顔を洗い、歯を磨く。  パジャマを脱いでストッキングを履き、シャツのボタンを留め、スーツを手に取る。  ストッキングに爪がかからず無事にはけたことでほんの少し自分を褒める。  取り敢えずの化粧を施し、時間を確認。 「もう一本いける。」  外に出る勇気を出すための気合いの1本に火をつける。  この1本を吸う間は、極力何も考えないことを意識する。  ジジジ・・・とまるで心すらも燃やしているかのように容赦なく葉が燃えていく。  もう限界という所まで吸ってガラスの灰皿に押し付ける。  昨晩からの吸殻でそれはもういっぱいだ。  限界を迎えつつある自分の心のようで思わずため息がもれた。  たばことライターをかばんに放り込み、鍵をもって玄関に歩く。  一歩が重い。  そろそろ替え時のいつものパンプスをひっかけひとつ深呼吸して扉を開ける。  狭いアパートの一室に豪勢な光が押し寄せる。 「行きたくない。」  そんな言葉はもう何千回、何億回繰り返してきた、ただの独り言。  鍵を回してノブを下げて確認。たばこの隣に鍵を投げ入れて階下へと歩く。 「今日家に帰りついた時間にタイムスリップできないかな」  とまた独り言を心で呟く。
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