夢の隣

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 新田家の本陣は勝長寿院に構えていた。戦を終え、宴も飽きた座敷には、死を待つ義貞が人を寄せ付けずにいた。そこへ細川家の三兄弟が罪人をひっ捕らえにでもきたように、襖を弾き開けて乗り込んできた。  鎌倉の街中で起きた武士の喧嘩。その原因を統治する義貞にあると責めに来たのだ。細川家は足利の家臣であり、尊氏の命を受けて鎌倉討伐を終えた後に都からやってきた。その目的が鎌倉の支配権であるのは明白であった。  義貞はすぐさま陳弁し起請文を提出した。責任を否定することは、統治者としての権利を放棄するも同義。たとへ喧嘩が細川の手引きだとしても、その落ち度を認める他にないのである。しかし事態は収まらなかった。その上、義貞のもとへ矢継ぎ早に提出されていた軍忠状、到着状が途絶えたのである。  原因は後醍醐天皇が都にて、論功行賞が行われると知った鎌倉の武士たちが、上洛を目指していたからである。さらに無官の義貞ではなく、従五位上治部大輔であった尊氏。その嫡男、千寿応(せんじゅおう)のもとへ集まっていた。  もはや、統治者としての体を成していない義貞。それでも笑った。そして、首に触れた。まだ、妖に渡す時ではないのだ。足利の隣に並ぶ望みは叶っていないのだ。  義貞はすぐに鎌倉を発ち都へ向かう。此度の鎌倉幕府討伐の恩賞を受け取るためである。  上洛後の8月5日に叙位、徐目式が行われ、義貞は従四位上に叙され、左馬助に官位された。しかし、足利は従三位に叙され、武蔵守に任官された上に、鎮守府将軍に命ぜられた。  それは征夷大将軍の一つ下とはいえ、現在の武士における最高位。つまり主従関係ははっきりと義貞が下であった。まだまだ、尊氏は遠い存在である。  その後、尊氏は後醍醐天皇の息子である護良親王と対立し、拘束ののちに幽閉してしまう。命を下したのは後醍醐天皇。そう仕向けたのは尊氏である。なぜなら、護良親王は征夷大将軍。つまり尊氏にとって唯一の従属しなければならない目上の立場であったのだ。  そして、護良親王の拘束から幽閉までを取り仕切ったのが義貞であり、その立場を与えたのが尊氏である。どれほど月日が経とうとも、定めのように不変の主従関係。足利と並び立つ。義貞の中では夢よりも儚い幻となりつつあった。
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