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公開収録
特設スタジオのステージには、湖春が立っていた。体調を慮って椅子も用意されているが、湖春はそれには座らず、深々と頭を下げた。
「このたび週刊誌で報道された件につきまして、ご説明させていただきます」
そう切り出した湖春は、碧惟と交際していないこと、別の一般男性と婚約しており、現在妊娠中であることを発表した。
渦中の碧惟と湖春がそろうイベントとあって、芸能記者たちが詰め掛けている。フラッシュを浴びながら、湖春は記者たちの質問に一つ一つ答えていった。
「それでは、出海碧惟さんとの間には、本当に何もなかったと?」
「ええ。出海先生とは長年一緒にお仕事をさせていただいていますし、彼と出会えたのも先生がきっかけですから、友人として仲良くさせていただいています。けれど、それ以上の関係はありません」
「出海碧惟さんのマンションに入っていったという一般女性については、ご存じですか?」
「はい。存じ上げておりますが、お二人の関係については、わたしがコメントすることではないと思います」
どんな質問にも、湖春がキッパリと回答すると、会見の最後は婚約と妊娠を祝う声で締めくくられた。
「それでは、引き続きまして『出海碧惟 23時の美人メシ』の公開収録へと入らせていただきます」
芸能記者が引き下げられた後も、湖春はステージに立ち続けた。
「先ほども申し上げた通り、わたしは現在つわりが酷く、大変申し訳ないことに調理ができる状態ではありません。そこで本日はスペシャル版として、アシスタントを別の方にお願いしたいと思います」
ステージで待ち構えていた梓は、生唾を飲み込む。
「梓さん、こちらへどうぞ」
湖春に呼ばれ、震える足でステージへと踏み出した。湖春と恭平の依頼とは、湖春の代わりに梓がステージに立つことだったのだ。
傍へやって来た梓の腕を、湖春が親しげにさする。それにホッとして、梓は観客に向かって頭を下げた。
「河合梓と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「本日発売『新婚家庭のファーストレッスン・初心者のための出海碧惟とっておきレシピ』制作スタッフの中から、梓さんに来ていただきました。梓さん、料理の経験は?」
「実はほとんど……いえ、見栄を張りました。ごく最近まで、全然したことがなくて。学校の調理実習も逃げていたくらいでした」
「ふふ、それこそが梓さんが今日選ばれた理由です。この本とDVDは、碧惟先生を射止めたまったく料理のできなかった女性が、つきっきりで碧惟先生にお料理を教わるという、なんともうらやましい内容になっているんですよね。今日は梓さんに、その幸運な女性になりきっていただきましょう」
湖春が励ますように笑う。梓もそれに応えて、何とか笑顔を作った。
「さあ、梓さん。あなたは碧惟先生と結婚したばかりの奥様です。いつもは碧惟先生がお料理してくれるので、梓さんの料理の腕はちっとも上達しません。でも、今朝は梓さんが先生にブランチを作ってあげるのよね?」
湖春が、梓にウィンクする。
「は、はい!」
(うわぁ、リアリティある設定……)
自分にしかわからない現実感が、いたたまれない。
冷や汗をかきながら、梓は調理台へと向かった。
碧惟は、まだ来ない。
梓はあの後、メイクや着替え、打ち合わせに忙殺され、碧惟に会えていなかった。
(先生、ちゃんと来るよね?)
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