頬に幸せを

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 頬に幸せを

 公開収録を終えた梓は、2日ぶりに碧惟の家に帰った。 「おかえり」  手をつないで帰ってきた碧惟がそう言ってくれる。 「ただいま帰りました、碧惟先生」 「昨日は本当にごめんな。それから、もう先生はいいよ。これからずっと一緒にいてくれるんだろ?」 「はい」とは言うが、急に名前だけでは呼べなかった。  笑うだけの梓を碧惟も照れたように見て、リビングまでまた手をつないで入った。  たった2日留守にしただけなのに、ずいぶん久しぶりの気がする。すっかりここが、梓の居場所になってしまった。 (会社にも実家にも地元にも、もう居場所なんてないような気がしていたのに)  梓にとってこれ以上なく心地良い場所をくれたのは、隣でギュッと手を握ってくれている碧惟だった。 「疲れただろ。先に風呂に入るか? その間に夕食を作っておくよ」 「先生こそ、お先にどうぞ」  ゆずりあって、結局二人でキッチンに立った。  簡単な打ち上げがあって軽食をつまんだので、おなかはあまり減っていない。 「軽いものにしておきましょうか」 「そうだな」  冷蔵庫をながめた碧惟が、パッと振り返った。 「あれ、作ろうか」 「あれ?」 「梓に作れるかな?」  からかうように言われたので、思わず頬をふくらませると、その頬をツンとつつかれた。 「ちょっと!?」 「アスパラともち麦のトマトスープ。疲れた体にピッタリだろ」 「あ……初めて作ってくれたスープですね」 「覚えてたか」 「忘れられませんよ」  初めて食べた碧惟の手料理だ。あの頃、すさんでいた梓の心身に染みわたった優しく力強い味は、忘れっこない。  あのときは碧惟が一人で作ってくれたが、今日は梓も手伝う。 「今の梓なら、一人でも作れるだろうな。簡単なんだ。まずは材料を切ろう」 「アスパラガスとパンチェッタでしたよね?」 「それから、玉ねぎとにんにく。半端に余った野菜も入れてしまおう」  材料を食べやすい大きさに切ってオリーブ油で炒め、トマト缶と水、もち麦とコンソメを入れて煮込むだけ。塩コショウで味を整えれば完成だ。  公開収録の後片付けをする碧惟に見てもらいながら、調理のほとんどを梓がした。  二人で食卓につくと、碧惟は感心したようだった。 「うん、うまい。この短期間に、よくここまでできるようになったな」 「先生がいいですから」 「いや、生徒がいいからだよ。何もできないところから、本当によくがんばったな」 「碧惟先生……」  急にグッとこみ上げてくるものがあり、梓はスプーンを置いた。碧惟の優しい笑顔を見ていると涙がこぼれてきそうで、慌ててうつむく。  向かいの席に座っていた碧惟は、そっと席を立った。その間に、どうにか涙を引っ込める。 (うん、大丈夫)  この幸せで特別な日に、涙は似合わない。ニコニコしながら、眠りにつきたかった。
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