Extra Lesson

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 あくびを噛み殺しながら廊下を行くと、洗面所で梓が顔を洗っていた。ワンピースを押し上げるように、丸く突き出たヒップが、なんとも憎らしい。  休日の朝なのだ。気の済むまで触らせてくれても良いじゃないか。  蛇口の水を止めた梓の手にタオルを載せると、碧惟は未練がましい表情を消しさり、テレビで見せるような整った顔を作った。 「あ。ありがとうございます、先生。おはようございます」 「うん、おはよう」  さっぱりとした笑顔で、改めて挨拶した梓の前髪に残る雫を、タオルで拭く。次いで、化粧水を取ったコットンを梓から奪い取り、そっと肌に載せた。 「自分でできますよ」 「いいから」  撮影時にメイクをしてもらうときのことを思い出しながら、碧惟は梓の肌にコットンを滑らせる。  戸惑いながらも、梓はされるままになった。後頭部を壁に預け、従順に瞳を閉じている。  こうしたとき、碧惟は無性に梓が愛おしくなる。  梓から寄せられるのは、全幅の信頼だ。梓は、碧惟の過剰な世話にも嫌がることなく、身を任せてしまう。  幼子のようなためらいのなさに少々心配になりつつも、碧惟はそれが嬉しくてたまらない。裏表なく人を頼れる素直さは、梓の美徳だと思う。  化粧水から乳液、クリームまで塗ってやり、油脂をなじませるように繊細な手つきで肌を押さえる。碧惟の両手にすっぽりと収まる、ふっくらとした頬が碧惟は好きだ。碧惟の体には乏しい柔らかさを、梓はたくさん持っている。  顎から首へとマッサージしていると、梓が音を上げた。 「もう大丈夫です。わたし着替えてきますから」 「着替えなくていいよ」 「え?」 「どうせ汚れるから、そのままでいい。エプロン、アイロンかけてなかったし」  このところの忙しさと雨で、洗濯物が溜まっていた。最近気に入って、梓と揃いでよく使っていたエプロンは、シワのついたままアイロンがけを待っていたはずだ。 「材料、用意しておいて」 「あ、でも、まだメイクもヘアセットもしてないし」 「発酵の待ち時間にすればいい。さあ、早く」  レシピを表示させたタブレットを渡すと、梓は戸惑いながらも従った。  碧惟が簡単に身支度を済ませてキッチンへ入ると、梓が真剣な表情で材料を量っていた。 「できた?」 「ええと、もうちょっと待ってください」  基本の材料は、強力粉とドライイースト、オリーブオイルと塩。  今日は、イタリア料理には欠かせないフォカッチャを作る。材料も作り方もシンプルだから、パン作り初体験の梓でも挑戦しやすいだろうと思ったのだ。  梓が材料を量っている間に、ドライイーストの処理をしておこうかと思ったが、やめて梓を見守ることにする。先回りしてやってしまうと、いつまで経っても覚えられないと梓が怒るからだ。  つい世話を焼きすぎる碧惟と、なんでも一人でできるようになりたい梓の思いは、一致しない。  それでも、元々人に頼ることに抵抗のない梓は、碧惟のすることに感謝こそすれ、嫌がりはしないのだ。 「できました!」  材料を量って、用意する。ただそれをなしただけで、晴れやかな笑顔を向けられた。  つられて自分の頬も緩むことを感じながら、碧惟はタブレットを手に、ゆっくりと梓にプライベートレッスンを始めたのだった。
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