ダドリー夫妻の朝と夜

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ダドリー夫妻の朝と夜

 ──帰ってきたわ!  ダドリー家の重厚な玄関が閉まり、馬車の足音が遠ざかる。  誰が来たのかは、家令の出迎える声を聞くまでもない。この家の女主人エミリアに伺いを立てずに正面玄関から出入りできる人物は、ただ一人。ダドリー家当主アーサー・ヴィンセント・ダドリー、すなわちエミリアの夫である。  家令の声を遮るように、エミリアは部屋のドアを閉めた。  正面玄関から続く階段を上がりきったすぐ脇にあるこの部屋で夫の帰りを待つことが、エミリアの日課だった。  夫は帰宅するとまず、自分の書斎に入る。その間にエミリアは、そっと自室に引き上げ、今夜も夫が無事に帰宅したことに安堵しながら、一人眠りにつくのだった。  エミリアと夫が寝室を共にしたことは、一度もない。結婚して半年、ただの一度もだ。  毎晩深夜に帰宅する夫がエミリアと顔を合わせるのは、ほとんど朝食室のみであった。  それで、夫と言えるのだろうか。  淋しさに耐えきれず、つい余計なことを口走った今朝のことを、エミリアは一日中後悔していた。  そして、激しく動揺していた。  だって、あのアーサー・ヴィンセント・ダドリーが!  若くして名門ダドリー家を継ぐやいなや、手掛けた事業を次々に成功させて財界に名を響かせたアーサーが。美男美女の溢れる社交界でもひときわ目を引く長身の素晴らしい肉体と冷涼な美貌をもちながらも、誰も笑顔を見たことがないとさえ言われていたアーサーが。いつもの怜悧な視線を緩ませ、頬さえも綻ばせたのだ。 「わたしが妻を愛していないなどと、どうして君が決めつける?」  アーサーは、確かに笑っていた。微笑どころか、失笑といった風情であったが、あれは確かに微笑んでいたと長年アーサーを観察してきたエミリアにはわかった。  銀行家の長女として生まれたエミリアは、それ以外にはただ若いことだけが取り柄の形式的な妻であった。周囲にもそう言われていたし、両親からも両家の結び付きのためのものだと言い聞かせられていた。  両親は、知っていたのだ。エミリアが密かにアーサーを慕っていたことを。  そのアーサーとの縁談が持ち上がったとき、いくら愛する我が子が恋した人物とはいえ、あまりにも一方的な恋慕では、むしろ娘の不幸になるのではないかと、両親は相当思い悩んだらしい。  それでも婚姻がなされたということは、それだけ両家にもたらす利が大きいからであろう。  その妻──と呼んで良いのか今もエミリアはわからない──を、アーサーは愛していると言った──ように聞こえた。 「だって、アーサー様の妻は……わたくしでしてよ?」  驚いたエミリアが、思わずそう問いただしても、アーサーの口の端は、ほんのわずかだが持ち上がったままのように見えた。 「その……あなたにとっては、不本意でしょうけど」  しかし、エミリアがそう続けた一瞬で、アーサーは表情を読ませない鉄面皮に戻った。 「旦那様、そろそろお時間でございます」  滅多に時間に遅れないアーサーが家令に急かされたので、エミリアは多忙な夫を朝からわずらわせたことを恥じた。 「ごめんなさい。いってらして」  エミリアはうつむきながらも、アーサーがわずかに身じろぎしたことを感じた。なにかためらっているような雰囲気も。  でも、それはきっと己の願望がもたらした些細な錯覚だったのだろう。  アーサーがエミリアの機嫌を取ろうとするだなんて考えられない。叱責ならありえるかもしれないけれど。  エミリアは両手を固く握りしめ、早口に言った。 「朝から余計なことを申し上げて、申し訳ありませんでした。さあ、どうぞお気をつけていってらっしゃいませ。ここでお見送りとさせていただきますわ」 「……不本意ではない」 「え?」  パッと顔を上げたエミリアは、背の高い夫にじっと見下されていることに気づいた。 「行ってくる」 「……いってらっしゃいませ」  鷹揚にうなずいた夫は、身を翻すと足早に朝食室を後にした。  それを見送ったエミリアは、クラリとよろめいて、ゴブラン織の美しい椅子にもたれかかる。 「奥様っ!?」 「いいの、大丈夫よ。ちょっと……びっくりしただけだから」  駆けつけた侍女の手を借りて、エミリアはふかふかの椅子に座り込んだ。  ──ちょっとどころではない。人生で一番驚いた。 * * *
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