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牛首
暮れ六つ。イカルガ朝の帝都、キョウ。
昼から三局打った碁仇の邸宅を辞し、スザク院の辻を通って西へ延びる六角小路を独り帰路に着く武家の隠居の姿があった。
(やはりあの一手が不味かったのう)
最後の一局の明暗を分けた、そしてそのせいで一勝二敗の負け越しを決定付けた痛恨の悪手を思い出しつつ、沈み行く赤い斜陽を追うように背後に長い長い影を落としながら、無言のままとぼとぼと、人影の無い道を歩く翁の行く手に、小さな稲荷塚の鳥居が見えてくる。
この見馴れた塚まで来れば、住まいまでは残すところあと一丁。建ち並ぶ家々から昇る夕餉の煙が翁の空腹を刺激する。
(負けの鬱憤は酒と肴で洗い流すに限る)
心なしか足早に稲荷塚を通り過ぎようとしたその時ーー。
塚の前に屈み込む影を翁は認めた。小さな鳥居の真下、塚に向かって蹲り、その姿は背中しか見えないが、どうやら若い女であるらしい。
「御新造さん、どこか具合でも悪いのかね」
背後から急に声を掛けて驚かせてはならぬと、いつもよりも意識した穏やかな声で訊ねた背中から、か細い声が答えた。
「ーー鬼が、来ます」
「鬼?」
訝しむ翁の問いに応じる如く、女は立ち上がり、振り向いた。
「ひっ!」
翁は思わず小さく悲鳴を上げる。
女はーー、否、女と思われたその者の貌、人の頭が乗っているはずの肩の上には、硬い毛に覆われた牛の首があった。
「春来る鬼が、やがてこの帝都に災いを運んでくるでしょう。ーー伝えなければ」
夕陽を背に、腰の砕けた隠居を見下ろしながら、牛であるはずの首から発せられた人語。杖を構えて震えるだけの翁がそれを頭で理解する暇もなく、牛首の女は稲荷の奥へと消えた。
燃える陽が山の向こうに墜ち、翁の背にーー、
夜の闇が忍び寄っていた。
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