第1章

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 この丸いのは野球ボールだ。兄が好きな球団の何かの記念ボール。これがないと兄ちゃんは淋しいはずだ。こっちの四角いのは、お母さんの化粧品の何かだろう。綺麗好きなお母さんが化粧道具を忘れていくなんて、よっぽどだ。この金属っぽいのはお父さんの腕時計。おじいちゃんからもらっていつも会社につけていってるやつ。これつけてないと、時間を確認するときに何もない手首を見て恥をかくよ、きっと。それから、グローブ、PSP、江國香織の小説、スマートフォン、財布…… 「それは、届けないほうがいい」  おばあさんは言った。 「これがないと、みんな困るんです」  私は反論する。  おばあさんは手を伸ばしてリュックに触れた。 「本当の忘れ物はこれじゃない。そして、まだ届けるべきじゃない」  おばあさんは私の手を握って立ち上がった。私も引っ張られて座席から腰が浮く。 「ここにいるほとんどの人は、何か忘れ物をしながらこの電車に乗ったの。あなたは違う。さあ、降りて」  立ち上がったばかりでよろめいていた私の背中をおばあさんが押した。私はさらにバランスを崩し、向かいにあった開きっぱなしのドアからホームに転がり出た。 『ドアが閉まります』  アナウンスとともに、プシュッと音を立ててドアが閉まった。ドアの窓からおばあさんが手を振った。声は聞こえなかったけれど何か言っていた。口の形からして、「いって」に見えた。電車は滑るように動き出した。  行けと言われても、行き先へ向かう電車から降ろされてしまった。ホームには乗り切れなかった人たちがたくさんいた。私は落としてしまっていたリュックを持ち上げる。  ホームの人たちはみんな泣いていた。そして何かを持っていた。ハンカチや、帽子や、ぬいぐるみや、携帯など。握りしめたり、抱きしめたりして、泣きながら誰かを見送っている。  手にしたリュックが異常に軽くなっていた。中身を落としてしまったのかと周りを探した。けれど、ボールも、化粧品も、腕時計も見当たらない。地面をキョロキョロ見回しながら、自分の目から涙がこぼれていることに気がついた。
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