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「ちょっと、聞いてるのかしら?」
バン、と運賃箱のICカードをタッチする部分に手を置いて、俺の顔を覗き込んでくる。
もちろん、聞いては――強制的に聞こえてくるのだが、今は運行中である。
面と向かって文句を言いたいのは山々だが、相手をして事故でも起こしてしまっては俺の責任である。
正直、そんなことで事故るのは馬鹿馬鹿しい。
「……今、走行中なんで停車中にお願いします」
そうマイクを通さずに伝える。
それがお気に召さないのか。
「……実籾身延ね。あとでクレームを入れるわよ? あなたの運転が下手くそで、ちゃんとお客様の対応をしないし、おまけに始発なのに遅れてきたって。それでいいわよね?」
そのお客はそうあからさまに俺を挑発してくるが、俺はそんな安い挑発に乗るほど簡単な人間ではない。
だが、そんな挑発をされて何もしない人間でもない。
『信号待ちのため停車します。お立ちのお客様はお手近のつり革や手すりにお掴まりください』
そうアナウンスをしてわざと少し強めのブレーキをかける。
もちろん、転ばない程度に、だが……。
「おっと……!?」
案の定というべきか。
俺に文句を言ってきたお客さんは、運賃箱を軽く握っていただけなので少しよろける。
だからか、それは怖い形相で俺を睨み付けてきた。
ミラー越しとはいえかなり怖かった。
降りる時までその人は睨み続け。
「……覚えておきなさいよ」
そう前ドアから降りる時に捨て台詞を吐いていった。
小さな事とはいえやり返してしまうのが俺の性格の悪さなのだろう。
もちろん、俺に非があるのであれば黙って受け入れるが、今回みたいなパターンは別だ。
後で管理者からなんか言われるかもしれないが、管理者とてバカではない。
状況を聞いて何かしら言い返してくれるだろう。
本社であればただ謝るだけかもしれないが現場は違う。
なんといっても多摩産業バスだ。
古い副所長以上の管理者なんかは怖いものないらしく。
この前なんかタメ口でお客さんに説教してたんだけど……。
まあ、そんな管理者がいるのだから大丈夫だろう。
そんな感じで俺の日常は過ぎ去っていく。
それが実籾身延の日常ってやつなのだから。
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